どこかの創作論で「主人公の自己紹介から始まるような物語は垢ぬけていない」という意見があった。
確かに「俺の名前は山田太郎。中肉中背、趣味はサッカーと裁縫。現在第一高校に通っている俺は…」という書き出しを市販の小説で見たことはない。
理屈的にも分かる。いかにも「これから物語が始まりますよー」という前振りがそこにはある。始点が見えてしまっている。
大半の作品において、物語は「作中世界の途中」から始まるはずだ。ほとんどのカクヨムユーザーが20世紀から21世紀の範囲で生を受けるのと同じように。
だからこそ市販されている小説の大半は、最初の段階だけだと何が何だかわからないし、読み進めるにつれて徐々にその人や生活(世界)の実態が見えてくる形式となる。そもそも最初の語り部が主人公とも限らないし。
そういう書き方をするには、構想をある程度練っておく必要がある。物語の導入は「途中から」だが、作者はその物語の始点と終点を押さえておかないといけない。
対して「主人公の名乗り」から始まるパターンは、何も前提条件が要らない。良くも悪くも先立つものはなく、後から継ぎ足せるわけだ。なので「10秒でそれっぽい話を書け」と言われたら、自己紹介になるかもしれない。
そういうわけで、主人公の名乗りスタートは初心者と呼ばれている。
余談だが構想を練るようになってくると、「ひょっとしてシーンごとに縛られた視点でしか書けない一人称より、均等に表現できる三人称のほうが楽?」となってきて、段々と三人称主体になっていくらしい。
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ここらへんは創作論として挙がっている点ではあるが、では、構想を練って書き出しをそれっぽく――加えて文法やシナリオなどをちゃんとお勉強したところで、限界というものがある。
例えばナボコフ著「ロリータ」の、彼女の名を発する際の舌の動きにすら陶酔を発揮する、あの気持ち悪い書き出しは再現出来ない。
それは他の点についても同じで、ルールやマナーは「コンセプト」を凌駕出来ない。
膨大な熱量や自意識がコンセプトであるなら、「俺の名前は山田太郎」が冒頭にあってもなんらおかしくはないし、むしろお行儀のよい三人称小説よりも、誰かの人生を変えてくる可能性もある。俗にワナビと呼ばれる人たちは、それを無意識に出しているんじゃないかと思う。
問題は当初の意思を全文にわたって――つまり数万文字、及びある程度の期間——貫き通すだけの熱量は、そうそうお目にかかれないということなのだ。
すなわち安定しない。
パッションやコンセプトがルールやマナーを上回ろうが、長期的には結局は落ち着く。だから人は創作論を残し、参考にする。
安定しないことこそが、アマチュアたるものの利点であり欠点であるし、それが逆にプロ――それを食い扶持にする人たちが滅多に選択しない理由なのだ。
というわけで、「創作論の限界」と題して書いていったわけだが、実際は創作論の強固さを伝えた結果となった。
型破りというのは、型を知らなければ実現しない。
どこかのAAでも伝えているように「誰もやってこなかったことの大半は、誰もが考えたが敢えてやらなかったこと」——すなわち見当違いということだ。
といっても大半がアマチュアのこのWeb小説サイトの中で、わざわざお利口なものを大量に生産する必要も感じられない。
だから、創作論やみんなの意見を学びつつも、それを出し抜く機会をうかがう、それくらいの姿勢でいた方がたぶん楽しい。