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作品の不親切さについて


 名作のゲームが何でもかんでもヒントやガイドを出す親切設計とは限らないように、小説においても不親切さが求められるという話を、私はカクヨムのどこかでした気がする。近況ノートなのか投稿した作品のどこかは分からない。

 意見は今も変わらない。というより、小説で世話を焼き始めると大体冗長になって面白くなくなる。作者の顔が見えてくると興ざめもいいところだ。
 かと言って不親切すぎても、当然ついていけなくなる。読者目線で無から有が出たように見えたら終わりだ。

 割愛しつつも、空白を推測できるようにしないといけない。その上で、読者の解釈を自分の伝えたい方向に誘導しなければならない。
 作者の手を離れた時点で作品をどう解釈するかは読者に委ねられるわけだが、それでも流石にある程度は自分と一致してないと困る。
 ノンフィクション・ドキュメンタリーみたいな徹頭徹尾あったことを伝えますみたいなものはまだ良いけども……

 この意図的な省略、不親切さというのは、共通のフォーマットがあるわけではない。作者が何を伝えたいかによっても変わってくる。
 何気ない生活が重要なファクターなら何気ない生活を描く(とはいえ、すべての生活風景を描くわけにもいかないが)だろうし、ほとんどの作品で割愛するであろうトイレシーンだって必要なら出す。
 逆に語られない部分が重要なら、バッサリシーン間を切断するかもしれない。

 計画された不親切さというのは、全体を書く前からちゃんと押さえておかないと出来ないので、大変だったりする。
 数万文字書いたものを、一万文字以内に集約したり、その中で敢えて冗長な演出を盛り付ける作業があるのだ。
 大変な作業をしても、それが読者に伝わるかという問題は別に存在している。

 ハードルは高いが、そういうバランスを整えた作品は情報量とスマートさ、そして驚きを兼ね備えた綺麗なものになる。

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