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よほど暇だったのだろう


 死にたくもないのに死について考えるのは、大体は暇だからである。

 人と遊びたいわけでもないのに孤独や愛について考えるのもまた、大体は暇だからである。

 仕事をしている間は暇でなくなると思っていて、私は何でも仕事だと思うことでモチベーションを高めてきた。

 しかし、AIを使ってからは仕事中も暇が出てきた。ダラダラできるまとまった暇というより、回線が悪い中、動画の続きを待っている間のあの時間だ。どうにも気がソワソワする。
 何かをやらないといけない時に、何も出来ない(その何かに使えない)時間が与えられるのは地団駄を踏みたくなる。
 それが一日中、毎日続くようになるので結構ストレスが溜まる。

 暇になるためになにがしかをやってるわけじゃないんだと思ったわけだが、暇に代わる目的地を今の私は知らない。

 その時間を埋め合わせするために、死や孤独や愛を考える。

 経済学者の成田悠輔氏が講談で、少し先になったら「人と人との接触、ハグや握手にこそ金銭的価値を持ち、貴ばれる文化が、生まれるのではないか」と語った。
 これは決して希望的な側面だけを帯びていない。人間の仕事はハード・ソフトを問わずロボット、AIに代替され、そして人間が生きがいを持てる気持ちのよい「個人レコメンド情報」もまた、与えられることになる。

 ここでの「人と人との接触」とは、今の人々が(少し前は当たり前のようにあったであろう)手入れされた自然、田舎の景色を旅行、レジャー目的で見に行くような、そういう含みのある話だ。

 私はその機会から逃げてきた節があるので、まだまだそういう世界に対する抵抗は少なめではある。

 どうなのだろうな。

 個人の利点が増えて、恋人を作らない割合は増えていく。
 技術の進歩によって、仕事は出来るようになっていく。
 しかし、将来的には、仕事が出来るか出来ないかなど、どうでもよくなってくる事態になっているかもしれない。
 と言っても、生物の本能から目を逸らした自分に、今更帰る場所はない。

 AIは自分の「考える」作業を代替してくれた。代替された私は、別の考えをめぐらせる。その後のこと、続きのことだ。

 そのまま、高齢者と呼ばれる時期になった時、何の役にも立たない部品はどうなるのか。

 今までの生物学、人類学の歴史が、「淘汰」という概念を持つ以上、これからも淘汰はあるのだ。
 それはシュレッダーに掛けられるような形ではないだろうが、ゆっくりと干上がっていく池の水面で口をぱくぱくさせている魚のような気分だ。
 恐怖ではない。魚にそんな感傷はない。その時が来たら、そうなるだけだ。

 暇は嫌だ。とはいえ、そんな時にしか素が出てこないのも事実。
 素も嫌いだが、ひとしきり話した後の一面に広がる、太陽がほんの少し透けて見える白い曇り空のような感覚は、滑らかなやり取りでは得がたいものがある。

2件のコメント

  •  暇と退屈について考えるなら、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』がお薦めです。僕も弟に薦められて読みました。もうお読みになっていたらすみません。
  • コメントありがとうございます。

    「暇と退屈の倫理学」、振り返ってみたら4年ほど前に読んでいたようです。
    文庫版はぶ厚かったですが、1ページの量が控えめなのと、語り口が面白くあっさりと読み終えた覚えがあります。
    人間は他の動物と違い、モノをモノとして認識し、多くの世界(環世界)を横断できる。だからこそ、一つの世界に集中できないのは必然である。
    暇や退屈を潰すこと(仕事)自体が、ある意味行動に逃れることで楽になろうという考えである。
    人間時折は「与えられるもの」から外れ、自ら贅沢を、浪費の機会を、意識的に設ける(バラを求める)ことをオススメする……というのがざっくりした内容だったかと思います。

    AIはある意味、この贅沢、浪費の対極にあるんでしょうね。安く実用性があり、全てを与えられる。

    発刊当時はAIという概念はなかったと思いますが、情報飽食(食傷)の対策としては依然有用性がありそうなので、この休暇に読み返してみます。
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