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AIにエッセイ、評論を書かせる際のぎこちなさ


 物語がいけるのなら評論もいけるだろうと、自分の思想をインプットにしてAIに書かせた。

 現代のさしすせそについて
 https://kakuyomu.jp/works/822139843771718141

 元々は「素」のテーマしか考えてなかった。

 自分の素を出して認められたいが、それが簡単にはいかなくなったのが現代だ。

 向こう見ずなことをして失敗すると「ネットがあるくせに何バカなことしてんの?」と言われ、何もしないと「手段は色々あったのにしなかったアンタの自己責任だろ」と言われかねない時代ということだ。

 しかもそんな「バカ」が自分以外にもゴロゴロいることがわかる。
 そこに安心を覚える人もいるだろうが、自分の素を表に出していいのか、出すだけの価値があるか分からなくなってくる。
 ある程度見えてしまうことが、逆に行動を抑止している。

 素を受け入れてほしい欲求。それが現在の物語に影響を与えているのではないか、という切り口だ。



「素」以外のさ、し、せ、その要素は、会話のなかで掘り進めていった。

 生成された文章は評論っぽくてなるほどと思う出来だったのだが、いざ投稿の段になったときに、何となくモヤモヤするものがあった。
 お題フェスのために出した物語達には感じなかったものだ。

 確かに読める。自分の思想も伝わる。

 なのだが、どうにもしっくりこない。

 自分なりに考えてみた結果、これは自分事と他人事の違いなのではないかとなった。

 書いてくれた物語には他人事として評価ができた。他人が書き上げた作品にケチをつける必要はないのだ。
 自分が得意だと思っているジャンル、言い換えれば、自分の匂いというものにプライドがあると、それを素直に受け取れなくなるのではないか。

 AI(機械)の作ったものには魂がこもっていない、というありがちな言い回しには、自分の縄張り意識に入ってきたものへの警戒が含まれているのだろう。


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