※※ はじめに ※※
この小部屋を見つけてくださって、ありがとうございます。
こちらは、わたしがkou様の作品を読ませていただいたときの、感想などを綴っているお部屋です。
今回はこちらの作品です。
『忘れ去られた呪文 』 kou 様
https://kakuyomu.jp/works/2912051598127654070
※※ 以下、ネタバレを含みます ※※
⚫︎ (O_O)!!
↑この顔文字は、こちらの作品の紹介文を読み始めた時のわたしです笑
思わず「うわっ」と声が出ました。
「い、い、五十嵐航さんではないですかぁぁ!」(心の絶叫)
うわぁ、これは…。
と、ややしばらく本編へ入れないほど、わたしを足止めする紹介文。
再び五十嵐航さんにお会いできた嬉しさと、どんなお話なのだろうという期待とで、目線がディスプレイに釘付けです。
さ。呼吸を整えて。
…読み進めることにいたしましょう。
⚫︎ 冷めたコーヒーを胃に流し込む
『アンドロイドは下ネタの夢を見るか?』に登場する、健司さんの主治医・五十嵐航さん。
「外科のエースで、独身で、イケメンで、優しくて、パーフェクト」(『アンドロイドは下ネタの夢を見るか?』(第4話より)
その上、30代で副部長さんなんですか。…それは…。
もちろんご本人の才能もありますが、“そこにいる”こと自体、並大抵の努力では到底いきつけない場所ですよね。
痛みを訴える声、死への恐怖、やり場のない怒り。(本文より)
お医者様というお仕事は、このような声を日々“受け続ける”んですね…。
患者さんすべてが“感情をぶつけてくる方”ばかりではないのでしょうけれど。
それでも、あの優しい五十嵐先生は「真摯に寄り添おう」として「受け取りすぎた」。
「心に厚い防壁」「治療は、情緒を削ぎ落とした効率的な修理」になっていく。
航は病院の庭で冷めたコーヒーを口にしていた。(本文より)
豆から挽きたてで、淹れたての美味しいコーヒーが本来のはずなのに、“冷たいコーヒー”ではなく“冷めたコーヒー”を飲むのが日常になっているように読み取りました。
この描写だけでも、忙しさの中の、ほんのひとときの時間。
庭のどこを見るのでもなく、目も頭も心さえも“焦点の合わない”、そんな疲弊し切った青年の姿を思い浮かびました。
⚫︎ ユリの香りがご褒美と悶絶を連れてくる
紹介文の時から気になってました。
“和服の女性”という一文。
「あれ。これって、弥生ねえさま? …っぽい?」と。
答えは、kouさんがあとがきでこそっと綴ってくださっていたので
そちらを読んだ時、合点がいきました(^-^)
(今作で、五十嵐航さんだけでなく、天神弥生(ねえさま)さんにも会えるなんて。
両キャラクターともに大好きなわたしには、とても嬉しくて。
もう、「なんのご褒美??」というくらいに🤭)
そして、弥生さんがつぶやくこの言葉。
「チチンプイプイ、痛いの痛いの、飛んでけ」(本文より)
………。
言葉を失うとは、このことですよ。…天を仰ぎ目を瞑りましたよ。
「ミニシアターで恋をして」を読んだ時くらいの、
はい。それはそれは、静かなる悶絶タイムでございました。(深呼吸必須)
⚫︎ やさぐれと麻痺
弥生さんと話す五十嵐先生は、
健司さんが退院時に、健司さんを気遣ってくれていた、あの優しいあなたはどちらへ?というくらいに
やさぐれてしまっています。
「ただの気休めですよ。」(本文より)
現代医学をもってしても救えない心があり、自分もまた、その無力感から逃げるために心を麻痺させている。(本文より)
それほどまでに、あの優しい感情を保ち続けるのが困難だったのでしょうね。
医学で体は救えても、どうしても救いきれない“心”がある。
その無力感に向き合い続けた結果、五十嵐先生は“修理工”でいなければ保てなかったのだと感じました。
⚫︎ 知・仁・武・勇 (ち・じん・ぶ・ゆう)
存じ上げませんでした。
「チチンプイプイ」の語源。そういうことだったんですね。
その言葉の源が春日局だったことも。
春夏秋冬、季節は4つあるのに、春の今、“春日局”の言葉だったと知るなんて。
なんだか、素敵な偶然でした。
「気休めですよ」「プラセボ効果」「誤魔化し」「本質から目を逸らせている」
五十嵐先生の、弥生さんへの言葉。
「ピシャリ」という擬音が聞こえてきそう。 …容赦ないですね。
「しかし、女性は動じなかった。」(本文より)
いやん。さすが、弥生ねえさまだわ。男前!
泣いていた少年に声をかけ、元気に走り去るのを見送ってから。
五十嵐先生がきっとご存知であろう、「江戸時代からの処方箋としての根拠」を弥生さんが静かに示す。
埃をかぶっていたとはいえ、やはりその言葉は五十嵐先生の中に残っていたのですね。
その上で、弥生さんの言葉は優しい弓矢のようでした。
五十嵐先生はどこか自暴自棄な対応で、
患者ではない弥生さんつまりは“修理する相手ではない”人。
五十嵐先生にとっては、“守るべき相手”ではない人間に少し向ける牙。
その少しの敵意を滲ませた言葉に対して
弥生さんは全く意に介さず、むしろ同じ土俵にさえ立つこともない。(…左京圭くん?)
そして五十嵐先生へ、どどーんと指を指します。(実際にはしてないけれど)
あなたは、“知”と“武”で日々を乗り越えてきたけれど
“仁”と“勇”を
「どこかに置き忘れてはいませんか?」(本文より)
と。
この弥生さんの台詞、すごかったです。
“やさぐれ航さん”への的中音が聞こえたようでした。
言葉での“戦闘”と言いますか。
五十嵐先生の疲弊に、弥生さんが静かに、でも寸分違わず矢を射たように感じました。
だからこそ、立ち去る時に
「お疲れ様です、先生。」(本文より)
と、よくある“挨拶”ではない「お疲れ様です」を、弥生さんは告げたのかな、とも感じました。
⚫︎ 「御宝」という火種
作中にたびたび出てくる『御宝』という言葉。
わたしはずっと「おんたから」と読んでいました。
読み方ひとつにも、どこか古くやわらかな祈りの気配が宿っているようで、とても好きです。
こちらを読んでいて、わたしは童門冬二の『小説 上杉鷹山』の一場面を思い出しました。
灰の中に残る小さな火を見つけ、それを火種としてまた新しい火を起こす、という場面です。
今作で弥生さんが少年へ唱えた「チチンプイプイ」も、まさにそんな“火種”のように感じました。
それは少年の痛みをやわらげるだけでなく、その場にいた五十嵐先生の中にまで、小さく火を灯していたのだと思うのです。
「少し、古いおまじないをさせてください」(本文より)
「長引く闘病に心が折れかけている老人」に対して、おまじないを伝えるシーン。
わたしが今回、いちばん心を掴まれたのはこの場面でした。
母や祖母からの温かさを思い出し、自分は消耗品じゃないと感じ、その心に灯った(思い出した)灯を、長年つらい治療をしている老人へ向ける。
五十嵐先生は、ただ弥生さんの言葉を借りて「チチンプイプイ」と口にしたのではないのですよね。
伝えるその前に、自分の中にあると信じる「知・仁・武・勇」をひとつずつ灯していく。
医学の知識(知)、患者への慈しみ(仁)、病に怯まぬ芯(武)、そして伴走する覚悟(勇)。
それらを自分の内側から呼び起こし、その上で初めて老人の手に想いを込めています。
“借り物の言葉”ではなく、“自分の血の通った言葉”として老人へ渡されているのだと感じました。
椅子を引いて傍に座ること。手を握ること。包むように撫でること。
その手つきは、もはや「修理」の延長ではなく、目の前の人を「御宝」として扱う手つきでした。
わたしにはあの場面が、五十嵐先生が医師としての優しさを取り戻した場面という以上に、自分の中にあった祈りを取り戻し、それを初めて誰かへ手渡せた瞬間のように思えました。
『してもらって嬉しかったことを返す』。
それは、してくれたご本人へそのまま返せないことも多いのかもしれません。
でも、痛みに寄り添ってもらった記憶や、自分は一人じゃないと思えた瞬間は、決して気休めでも気のせいでもなく、人の中に残り、いつか別の誰かへ手渡されていくのだと思います。
⚫︎ 2,000文字企画の絶妙さ
2,000文字企画で描かれる作品。
『路面電車で春を待つ』や『ミッドナイト・ブルース』など、素敵な作品がいっぱいあります。
それは、2,000文字という凝縮の美しさがあるからこそなのでしょうけれど
今回は終盤の五十嵐先生を、あとほんの少しだけ見ていたかったなぁ、とも感じました。
老人の目に光が戻ったあとの病室の空気や、その場を離れる五十嵐先生の胸の内など、贅沢を言えばその余韻をあと少し浴びていたかったです。
⚫︎ 四つの御宝の中心にあるもの
今作で初めて知った「知仁武勇」。
わたしはこの四つのなかで、何より「仁」が核にあるように感じました。
仁がなければ、知は切り捨てになり、武は威圧になり、勇は暴力になってしまう。
けれど仁があると、知は癒しになり、武は支えになり、勇は守る力になる。
弥生さんの「置き忘れていませんか?」という問いが、五十嵐先生にあれほど深く刺さったのも、もともとその根に「仁」があったからなのだと思います。
⚫︎ 外からも 内からも
夕方、老人の病室での場面。
「医師として“最期”まで伴走する覚悟」とありながらも「必ず良くなります。」と、やさしく、でも力強く伝える五十嵐先生。
数値が安定していることしか、告げていなかった今までの無機質さではなく、
五十嵐先生の御宝が、老人の御宝へ直接語りかけたように感じ、涙が溢れました。
そのご老人の中の“御宝”にも火が灯り、
自分の価値を思い出し、誇りを取り戻した心が、内側から身体を支えていくようなラストでした。
人のぬくもりや祈りは、目には見えなくても、思っている以上に深く届くものなのかもしれません。
どうかどうかお元気になって、ご家族の元へと退院できますように、と祈らずにいられませんでした。
⚫︎ おわりに
とてもとても、心の奥底に、それこそわたしの“御宝”に響く素敵なお話でした。
感想が溢れて仕方ありませんでした。
つい、自分の御宝を大事にすることを優先できないわたしですが
疲弊して麻痺して、全てを「まだ大丈夫」と乗り越えすぎることがないよう
自分をもう少し労わってあげないとな、とも思わせていただきました。
五十嵐先生の、麻痺していた心が“もう一度痛みを感じられるところまで戻ってきた”ことを感じられました。
あの庭で少年が転び、弥生さんが「チチンプイプイ」を唱えなければ、五十嵐先生はもっと静かで、もっと“ちゃんとした修理工”として、自分の麻痺を見ないふりしたまま進んでいたのかもしれません。
でもあの小さな火種に触れたことで、もう見ないふりを続けられなくなった。
もともとその人の中にあったものが、静かに動き出したのだと感じました。
はぁぁ。
優しく降り積もる、初夏のポプラの綿毛のような
柔らかく透明で、とても素敵なものが読後の今、心に降り注いでいます。
素敵なお話をありがとうございました。
以前の【感想のお部屋】で、“五十嵐医師”と呼ぶことに抵抗を感じ“五十嵐さん”とお呼びしていましたが、今回はそれも違うと感じたので、“五十嵐先生”で統一させていただきました。
では、また『感想のお部屋』でお会いいたしましょう👋
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
kou様へ
今回こちらの作品を読ませていただいて、
「人を支える立場の方」への認識を、わたしはどこか単純に捉えていたのかもしれない、と感じました。
人の痛みや悩みに寄り添う方たちは、きっと上手に線引きができるのだろう、と。
でも実際には、真摯に寄り添うほどに受け取りすぎてしまうこともある、のかもしれない。
そのことに思い至って、自分の見方の浅さを少し恥ずかしく思いました。
他者の立場に立って、思いやる。
その示唆をいただいたようで、この作品を読ませていただけて本当に良かったです。
ありがとうございました。
ちょっと真面目に話しちゃったので。
ここで、kouさんとの恒例?の献血の話を🤭
前回の【感想のお部屋】で、献血に俄然興味が湧いたわたしに
まるで「どうぞ」と差し出されるように
kouさんからお返事をいただいた、その週末に買い物先で偶然にも献血バスと巡り会いました。
もうこれは、献血するしかないでしょう💪、と初の献血をしてきました!!
ここでぜひ聞いていただきたいのですが、
今回の『忘れ去られた呪文』の【感想のお部屋】があまりにも長くなってしまい、
(というか、【感想のお部屋】はいつも長すぎる!)
申し訳ないので、またどこかで聞いていただきたいです笑
まずは、献血先輩に「はじめてのけんけつ」のご報告をさせていただきます笑
それでは、また( ´ ▽ ` )ノ