企画:https://kakuyomu.jp/user_events/2912051607492138739
彼氏と彼女がちいかわ映画を見に行った、という話を私は目にした。
「なんで〇〇君って普通に映画を観れないの?」
というところから話は始まる。
映画を見終わった男は「このシーンはこれを象徴していて、人のこういうところを表している」という見たままの感想を共有したようだが、彼女はそれに対して「なんで普通に映画を観れないの?」の言うに至った。
その一言に対する男の単純な疑問が綴られていたが、顔をしかめているのは簡単に想像できた。
女曰く、
「うさぎが可愛いとか洞窟のところ怖かったとかそういう感想でいいんだよ。なんで深読みしたがるの?」
ということだったようで、彼氏はこう感じた。
深読みもせず普通に見ているだけであり、なんならちいかわ原作者だってこれくらいのことは考えながら作劇しているだろう、と振り返っていた。
以降、2人は心の距離が離れてしまったようで、「相性を測るのにかえってちょうどいいのかもしれないと思ったわ」というオチで締めくくられた。
私は、彼氏と彼女の両方に共感した。
何が問題だったかと言えば、適切なコミュニケーションが取れなかったことにある。
これは、当の2人、そして作品、その三角のような関係だ。
創作はコミュニケーションだ。受け手と送り手のコミュニケーション。
送り手が「ここは笑いどころ」として場面を描き、受け手が「ここは笑いどころだ。笑える」という認知の一致で作品は成り立っている。
そしてこの構造は、相手の求めることに応えていると言い換えられる。
送り手は受け手に期待されたことを描き、受け手は、送り手のこう見て欲しい期待に応えている。
対人コミュニケーションでも全く同じだ。
上記の2人の感想は、ちいかわが持つ一面だった。
しかし、「こういうことで感想を交えて、共感したかった」という互いの期待には応えなかった。
私も創作の場で同じことに着面している。
ただ、どちらかと言うと彼女寄りの視点だが、自らの作品をより良くしたいという気持ちが強い時は完全に彼氏寄りの視点になってしまう。
重要なため繰り返すが、これは適切なコミュニケーションが取れなかったことにある。
適切なコミュニケーションのためにはルールが必要だ。都会で挨拶をすれば変人扱いされるが、フランスなどの挨拶が基本とされる場で挨拶をしなければ、冷遇されることになる。
ここで「私の出身ではこんなことしない!」
と言ってしまうのは不適切なコミュニケーションだ、と主張したい。
日常系の作品に、展開がないと言ってまうのは不適切なコミュニケーションであり、その逆も言うまでもない。
そのルールを受け手が受け取れるように整えることも重要だが、受け手もその発信を受け取れるようになるには練習が必要だ。
この企画は、そのための場になっている。