企画
https://kakuyomu.jp/user_events/16818093093892950020 例に漏れず、フォロワー様のお目汚しをしないために以下のおまけを。
参加者へ向けてのサンプルでございます。
"皆様も、批評に関してはーーー様と同じ初心者なのでは
辛口とは攻撃的な言葉を使うことだと定義していらっしゃるのだろうか
なら仕方のないことでしょう
下にある作品ではなく、この作品をわざわざ読んでいらっしゃいますからね
皆様の役目がそのようなものなら、私は作者の意図の中で話を進めます
ハヤシライスを作っているのに、これはカレーではないと述べる真っ当な話ではなく、ハヤシライスの味についてお話していきます
叙述的美、とタグ付けされているのでまず作者の意図を述べ、他の方にどうそれが伝わっているのか述べます
韻律重視で句読点や言葉を選んでいらっしゃるのですね。確かに文学作品には一般的な規則から逸脱して、それでしか出来ないことを表現することはあります
句読点も、意図された韻律で読ませるためにそうなっていらっしゃるのですね
語彙に関して。起きた事象を目で見たこととして描写していらっしゃいます。"彼は怒った"ではなく、"彼は机を叩いた"というようなことを、心情だけでなく事象についてもそうしていらっしゃる
ストーリーや人物にはさほど重きは置いていないようです
これらが受け手にどう機能しているのか。
少なくとも、ウェブ媒体という不特定多数の人が目にする場所においてはストレスになり得ると言えるでしょう
生成文法という言葉の規則について論じるものがありますが、この文は確かに一般的な法則から逸脱しており、違和感が認知負荷に繋がっているかと。
まえがきとしてその旨を受け手へ伝えると、これはハヤシライスなんだとすれ違いが起きずに済むでしょう。あとはハヤシライスが好きになるかどうかの話です
一般的な文法と語彙の次元で言えば、首の回らない程の量、相棒が口癖を反拍する、陰らせる
になりますが、程のあるなしで、実際首が回らない量なのか、回らない程の量なのか、伝達するものは確かに変わるでしょう。
影らせるは、本文を見る限り陰らせるとはニュアンスが違うと感じます。とはいえ、英語でも、生やす、育つと訳されるgrowは、人や野菜などに使えても、髭だとネイティブは違和感を覚えます。髭が自らの意思で生やせない限り使えないということです。勝手に生えるのではなく自らの意思でしか生えないのなら、理論的には可能です。しかしそれでも、その旨を伝えねば、拒否される、旨を理解したとしてもネイティブレベルで違和感が残ることは覚えておくべきでしょう。このバランスはあなた様に委ねられています
総じて、楽しむには一般的な感覚が通用しないと言えるでしょう。私は普段から翻訳調な文章や言語学について考えているのでストレスはなかったのですが、そんな読者を想定するには作品発表の場所を選ぶべきかと。少なくともここでは、ゲームで言えば弱点倍率が2倍から0.1になるようなものだと覚えておいてください
あと韻律も、個人的な要求ですが押韻を頻繁にしてみてください。mummy-D氏のラップを聞けば良いかと
最後に、攻撃的なあの二つの論は一般的な感覚の読書体験をする上では有用です。あなた様がよりよい作品を作るためにすべきことは、目的に応じたバランス感覚を養うこと、その意図を読者へはっきり伝えることです。成長を楽しみにしております"
おまけおわり
以下はおまけのおまけ
拙作がどのように作られているのか、個人的な対話を統合して貼り付けます
人が何に着目し、何を見落とすのか、また、どんな人が何に着目し、何を見落とすのか、をマジックで言うミスディレクションでしたり、人の注意の向き方を個人的に研究したりしています。
配置を入れ替えたような変な韻の踏み方、誰も突っ込んでくれないので心配しておりました。ありがとうございます。
ルビ振りに誤字はないです。
この短編、ややこしいことに拙作異世界徴税官のガイドラインのためだけに書かれたもので、ガイドラインの前後の文脈を切り離してそのまま抜き出したものです。
私は人類学、社会学などを学んでいる者です。
研究者たちは論文として人に伝えられますが、私にはその環境がありませんでした。しかし論文は大抵その道の研究者しか読みません。それに価値を感じる人に知られるにはどうすれば良いのか。
ミツバチやアリの役割分担的な思考で、私が選んだのは創作でした。
まず上から順に答えさせてください。
腐肉の喩えに乗っかりますが、全ての拙作は、何の基準でもって腐肉を定義するのか、何のために解体をするのか、を問う作りになります。
作家の定義についても興味深くはありますが、ここでは置いておきます。少し話も逸れますが、ロラン・バルトの"作者の死"をご存知でしょうか。拙作を在り方を決定してる重要な概念です。それを応用して、作者へ、何故、と問い続けるのです。
"本作は技巧は感じられるものの、読者に伝える作品でしょうか?"
私にとってはその技巧とは、伝えたいことを伝えるためのもの。技巧を使うために物を書いているわけではありません。読者に伝えたいことがあるために使っています。先ほど、人の注意を個人的に研究していると申し上げましたが、ここにつながってきます。わかる人、わからない人、知っている人、知らない人、主観的な人、他者理解を実践する人など、その他多くの層に分けて情報伝達を考えています。
子供向け作品を大人が見ると深い、という二重構造的です。
"コミュニケーションを取ろうと歩み寄っていますでしょうか?"
全ての拙作は、層の区分け拡大に対して段階的に取り組むつもりです。多くの時間をかけて、それぞれの異なる人たちに合わせた作品を考えています。
コミュニケーションとは、拒否、不快、愉快、攻撃、承認、非難、などのやりとりだけでなく、相互作用的であるもの全てとしております。
宝石の描写に関しても、私が現代ものを避けたくなる要因の一つです。
私は創作において、全てに意味を与えています。
それはもちろん伝えたいことを伝えるためです。定義の話に戻りますが、何のための定義でしょう。何の目的に基づいた定義でしょう。定義は、規則、規範に言い換えられます。何のためにそれを行うのでしょう。資本主義という規範に基づいた結果、人が死んでも良いのでしょうか。人は死ぬべきでない、という規範のために、意識だけあって真っ暗闇に閉じ込められても良いのでしょうか。
現代的世界という制約を受けると、伝えたいことが現実に制限されます。無意識にです。
私が今まで出会ってきた作品は二つありました。既知の象徴が持つ意味を利用する作品と、新たな象徴へ恣意的に意味を定義し、それに基づいて運用する作品です。
新しい概念には名付けがないと不便でしょう。
たとえば、"実際に発音される形が、複数の競合する制約の相互作用によって決定される"という現象を毎回いちいち言っていられませんね。そのために名付けをするのです。最適性理論と。宝石に関する描写も、それに基づいています。
しかし。
汗顔のいたりで本当に申し訳ないのですが、この短編、拙作異世界徴税官の約3000年後です。
現実の宝石とは異なる物なのです……すみません本当に。
ガイドラインのためだけに書いたので、そんなに思い入れがなく、注意すべきことも前後の文脈も一切向こうに置いてきました。それにもかかわらず、今思えばそれは英断だったと確信できます。
"宝石の定義は変わらない美しさを保つこと"
ここに関しても、拙作が挑んでいることです。見た目は変わらなくとも、受け手の感性が文化的、心理的変容によって揺れが生じる、ということも念頭に入れています。どういうことかと言うと、人であることで、事象の認知はありのままではないということです。可視光や匂い、紫外線の見え方は生物によって異なり、また、見えないことも感じないこともある。唯物論や客体主義とか知っていると理解しやすい感覚でしょう。
"作品は公開した瞬間から、作者の手を離れて、無限の解釈の作品へと昇華します"
全ての拙作に関しては、出来事に関しては絶対的にひとつです。歴史の出来事は、起こったことただひとつであるように、解釈は許されません。しかし、その出来事、作品に対して、傲慢、無関心、共感、感動、全ての反応を想定して作られています。とはいえ、絶対的な出来事を飲み込んだ上で、好きなように解釈するな!とは言ってないので、知らないふりをする、という距離感です。記録された歴史は間違いだらけの場合もあり、都合の良い改ざんや改訂もあるように。
これに関連して、人類学や社会学を学んでいると、違いそのものが社会集団を分断していることに気づきます。よく頭の良い人や、そうでない人、テンプレが好きな人そうでない人、という二項対立がありますが、私はそこに関しても物語として表していきます。私は、殺菌消毒される細菌にすら共感する、自他同一性があります。
"先ずは相互理解を大切にされることが、貴殿の作品を彩り豊かなものとなると信じております"
相互理解とは、脳の機能を使った物です。興味深くも一個人として寂しいことに、勝手になされるものではありません。できる道筋があればそうなれる、という簡単な仕組みではないようで、他者理解は前頭葉や前頭皮質を使うようです。
おまけのおまけおわり