企画
https://kakuyomu.jp/user_events/16818792438167896092今まで、特定の読み手をターゲティングして作品を作ってまいりました。近頃、届けたい方へ作品を届けられる、という体験が増えつつあります。物語を描くにあたって誰のために描くべきかと、読まれない可能性が高くなるリスクを承知でこの舵を切ってよかったと、人生においてなかなか得難い、自ら定めた範囲内の成功を収めることができました。ご縁のある皆様、いつも、本当に、心の底からお礼申し上げさせてください。叶うのなら、より高い満足度の物語を提供することができれば……と強く願っております。
おまけ
論理の飛躍と物語作品への考察という行為
〜作者の意図を考えなさいという国語とそれを忌避する人の特徴〜
というタイトルが意味するのは、"抽象化、具体化、並列化、という思考法を用いて、手元にある情報のみから推論しなさい"というものです。
もっと別の言い方をすると、考察をせず、推論をしなさい、というものになります。
ここにおける考察とは、曇り空を見てもう少しで雨が降るかもと考えることであり、推論とは、曇り空を見て、今までこの形なら、この流れ方なら、今この地域は低気圧だから雨が降る確率が高い、と考えることです。
事象の場合、どちらも的中させることはあります。簡単にそうはならないのが創作です。たとえば漫画などです。どうすればその後を予想できるのでしょうか。
創作とは、コミュニケーションです。送り手と受け手の。対話であるため、なぜ作者はこうしたのだろうと、推論する必要があります。
具体例に、ワンピースの「考察」動画を挙げます。
いくつか、確度が高く、的中させているものがあるようです。
そのほとんどで確認されている行為は、作者の意図を汲むということです。なぜそう描いたのか、なぜここにその情報を置いているのか、ということです。
私はこれまで、特定の読み手を明確に想定して物語を作ってきました。
近年は、その読み手へ確かに届けられたという手応えを得られる機会が増えています。
作品を誰に向けて描くのかを明確にし、そのために必要な情報配置や構造を設計する――この舵を切ったことは、リスクを承知のうえでの選択でしたが、自分の中での成功と言える結果が舞い込んでくれました。
ただ、ここで改めて感じたのは、「作品はどう読まれるか」の問題です。
意図通りに届く場合もあれば、意図とは異なる方向に解釈される場合もある。
では、どうすれば読者は正確に意図を汲み取れるのか。
考察と推論
創作における二つの読み方
私がここで言う「考察」とは、現象を感覚的・印象的に述べる行為です。
たとえば物語で登場人物が不穏な笑みを浮かべたとき、「この人は裏切るかもしれない」と直感的に感じるのが考察です。
一方で「推論」とは、物語内の情報配置、過去の伏線、設定、キャラクターの動機、そして作者の作風から必然性を組み立て、結論に至る行為です。
同じ場面でも、「この人物は第3章で似た行動をしており、その時も目的のために仲間を犠牲にした。今回も同じ構造が働く可能性が高い」という読み方が推論です。
創作において重要なのは、この「推論」です。
なぜなら、物語は偶然の寄せ集めではなく、必ず意図を持って構築されているからです。
創作はコミュニケーション
創作は、作者と読者との間に成立する高度なコミュニケーションです。
作者は情報を「いつ」「どこに」「どのように」置くかを選び、読者はそれを拾い上げ、再構築します。
ここでは作者と読者が共有している「ジャンルの文法」や「物語の構造的な必然性」が暗黙のルールとして働きます。
推論型の読み手は、この暗黙のルールを自然と参照します。
逆に、印象だけで感想を述べる考察型の読みは、しばしば作者の意図から外れてしまう。
わかりやすい例として、『ワンピース』の考察動画を挙げます。
多くの的中例は、キャラクターの台詞や小道具、背景描写などの「配置された情報」に注目しています。
そしてそれらを「なぜここにあるのか」という視点から検討している。
結果として、物語構造や作者の設計意図に基づいた予測が可能になっています。
これは偶然ではありません。
作者は、情報を置くとき、その物語上の必然性を理解しています。
それを読み解くことこそが、推論的読解の核です。
私は、物語が正確に届くかどうかは、読者が推論的に読むかどうかにかかっていると考えます。
そして、推論的読解を成立させるためには、作者の意図を汲み取る姿勢が不可欠です。
創作は一方通行の発信ではなく、双方向の対話です。
作者は意図を込めて描き、読者はその意図を拾い上げて再構築する。
この往復運動こそが、物語体験の深度を決めます。
だから私は、作品を作るときも読むときも、常に「なぜこの場面がこう描かれたのか」を問います。
国語において、作者の意図を問われます。そして、エンタメ的創作では、しばしばそれが嫌われます。しかし、人と人のコミュニケーションである以上、それは避けられないことです。それでも嫌というのなら、バケツいっぱいの水をコンクリートの壁にかけて、この模様とこの模様が人みたいにケンカしているなぁとにやにや見つめることも好きになれるのでは、と考察してしまいます。仕方のないことです。コミュニケーションが苦手な方もいます。エンタメ的創作は、そんな人でも楽しめるように作られる場合が多いですから。いい世の中になりました。
元の意味から言葉が誤って使われるように、それでも十分、誤っていたとしても意味が伝わり、便利に使えるのなら、同じように、創作においてもそう思います。
おまけのおまけ
いやはや。近年は創作的技術の高さがうかがえる作品が見かけることができて、大変嬉しいです。ルックバックや、タコピーの原罪、ガンダム作品に、無職転生でしょうか。
原作がある場合だと、その原作よりも、技術的にうまく作られていることが多いようです。映像制作側の人が優秀なのでしょうか。原作を見てみると、そういった技術的演出がないんですよね。
ともあれ、既存を伸ばしてくれる、そんな創作仲間にもっとたくさん出会ってみたいものです。もちろん、今でも心強い創作仲間に出会うことができています。