2センチメートル 越えて 空
鋏池穏美
私はメリーさん。そう呼ばれている。
捨てられた、愛されなかった、メリーさんという事象。埃と雨の匂いのする暗がりで、私は目をあけた。名前を名乗り、距離を詰め、最後に背後から囁いて魂をいただく。それが私の在り方で、呪いで、進むための唯一の階段。私はルールとして顕現した電話を取る。端末の向こうにいる、次のあなたへ。
―――
俺は怪異ハンター。そう呼ばれている。
コードネームは
―――
私はメリーさん。
ツーコール。スリーコール。つながった瞬間、紡ぐ言葉は決まっている。
「もしもし。わたし、メリーさん。今ゴミ捨て場にいるの」
心に沈殿する湿り気まで伝わるように、ゆっくりと届ける呪詛。恐怖は染み込ませるもの。受話器の向こうから聞こえる静かな吐息、硬い沈黙、怯え。それを私は待っていた。
―――
俺は怪異ハンター。
けたたましく鳴る電話を手に取り、こう答えてやる。
「そうか。最初はそこからだな」
会話じゃない。答え合わせだ。電話の向こう、お前のルールを見せてもらおう。
地図を広げ、ペン先で自宅から最寄りのゴミ集積所に小さな×印を打つ。ルールに従うなら、次は四つ角か橋。電話越しの気配は湿っていて、埃と雨の匂いが舌の上でざらつく。俺は心拍を一定に保ち、相手の出方を伺う。
―――
私はメリーさん。
思ったより揺れない声。心の水面に波紋が広がらない。私は電話口のあなたの位置を覗く。
瞼の裏の地図に、一本の糸が伸びた。糸の先に立つ人影。逞しい身体。迸る魂の色。右の側頭にひとつ、ぎょろりとこちらを向く眼。
―――
俺は怪異ハンター。
怪異のほとんどは覗く。右側頭部にかすかな痒みが走る。そこにあるのは鉄錆みたいな色を帯びた眼。皮膚の下をゆっくり転がり、俺の意思を介在させずに蠢く。そうか、そっちから見ているのか。俺の視界が多層に裂け、背後の空気まで明滅する。
再び鳴った電話。
「わたし、メリーさん。今橋の上にいるの」
「だろうな。次はあの通り筋だ」
地図に印。退屈な答え合わせ。
―――
私はメリーさん。
彼を覗いてはっきりと知った。右の側頭だけじゃない。首の根、本来なら柔らかい産毛が風に揺れるはずの場所にも、濡れた黒曜石のような眼。他にも、他にも他にも──
死角が、ない。
ワンコール。ツーコール。
──わたし、メリーさん。今あなたの家の前にいるの。
終わりに向かう言葉を舌の裏で転がし、すぐに溶かした。電話を持つ手が震える。言ってはいけない。言えない。ルールが喉に縄をかける。私は対象の死角に入り、ようやく階段を登れる。死角を持たない彼では、私は階段に足を掛けられない。
―――
儂は
だがあの男にだけは勝てなんだ。まるで百の夜を煮詰めて一つにしたような、どろどろと濃い魂の男。
殺される刹那、せめてもの呪いを施してやった。儂の意志を、眼を刻みつけ、常に魂を削る。見えるか、男よ。貴様の魂を穿つ眼が。
―――
俺は怪異ハンター。
鳴った電話の向こう、微かな息遣いが鼓膜を撫でる。本来なら「今、あなたの家の前にいるの」と続くはずが、沈黙が間を埋めている。
「どうした」
投げた問いは、電波のざらつきの向こうへ消えた。
―――
私はメリーさん。
進めない。終われない。対象の魂をいただかなければ、次に行けないのが私という事象。けれど近づけない。奪えない。彼のあの眼は近づくほど濃く、湿り、私の形に焦点を合わせる。
ひとまず一定の距離まで離れ、そこに立つ。暗闇の中で、彼を起点にぐるりと回る。どこか、どこかに死角が。風だけがスカートの裾を掬う。私は円を描く。描かされる。くるりくるりと彼を中心に。
ひゅう、ひゅう。受話器の穴に風の音が吸われていく。私からは電話を切れない。次の言葉を言わなければ切れない。けれど──
なぜ彼も、電話を切らないのか。
―――
俺は怪異ハンター。
玄関を出た。古い外灯が薄黄の輪を落とし、アスファルトの血管みたいなひびを照らす。ポケットにお札と塩。肩からは古い革の鞄。電話はスピーカーに切り替えて胸ポケットに差し込む。
風が回る。音はしないのに、空気が擦れる。全身に穿たれた眼が、風の旋回に応じるように瞬く。
「……いるな」
―――
私はメリーさん。
いるなと彼が言った瞬間、私が覗くために放った糸がわずかに震えた。待たずに来るつもり?
私は試す。保った一定の距離から半歩、内へ。
──ぎょり。
彼の全身の眼が、私に向く。
「わたし、メリーさん。今ね——」
喉の奥で言葉が崩れ、金属片みたいな味がした。言えない。言えば嘘になる。嘘はルールにない。私は嘘で進めない。
―――
俺は怪異ハンター。
段階を進めるひと言が出ない。電話も切らない。いや、切れないのか。ゆっくりと歩を進め、角を一つ、また一つと曲がる。
無数の視界が花弁のように開き、影がなぞる円の縁がずっとついてくるのが分かる。距離は縮まらない。一定。まるで見えないポールに結ばれた馬みたいに、同じ軌道を踏んでいる。
気の毒だとは思う。ルールはしばしば怪異自身の檻だ。
―――
私はメリーさん。
馬鹿みたい。くるりくるりと回るだけの事象。どの角度から見ても、彼に死角は存在しない。
私は古い記憶を掘り起こす。冬のゴミ捨て場、焼却炉の赤い口、捨てられた、殺された日の風。
──俺らそんな関係じゃねぇだろ。好きですとか気持ち悪ぃんだよ。
私は彼にとって欲望を吐き出すだけの人形だった。けれど、愛していた。愛していたの。
はじめていただいた愛していた人の魂。あれから私は、いったいいくつの魂を奪ってきたのか。私が愛し、恨んでいたのはただ一人のはずなのに。
奪いたいの? 愛されたいの?
私は──
―――
俺は怪異ハンター。
橋の上で立ち止まる。欄干に錆が浮き、川は浅く、濁った水が月の光を返す。真上から落ちてくる夜気の中に、音のない回転が続く。
胸ポケットのスピーカーから、微かに風の擦過音。その奥、震える嗚咽が聞こえた。俺が過去に抱え込んだ呪いが、電話の向こうの怪異──彼女の心を覗く。
──俺らそんな関係じゃねぇだろ。好きですとか気持ち悪ぃんだよ。
冬のゴミ捨て場、焼却炉の赤い口、捨てられた、殺された日の雨。
そうか。そうやって怪異へと成り果てたのか。
「泣いているのか」
そう、声をかけていた。
―――
私はメリーさん。
電話の向こう、彼の声が響く。鋭くはない。柔らかく静かな問い。
「……」
声を作ろうとしても、喉が詰まる。ルールが私の唇を縫う。私が口にできるのは、彼との距離を詰める言葉だけ。
私は回る。スカートの裾だけが外気を攫い、ふわりふわりと舞い回る遊具のよう。きらきらと光り輝き、回り続けるあれ。夜の遊園地の、軋む音——。
「まるでメリーゴーランドだな」
そう言った彼が、くすりと笑った。
―――
俺は怪異ハンター。
彼女は来ないのではない。来られない。
死角に立つという最終手順に到達するための条件が、俺には存在しない。彼女は手順の更新を自分でできない。だから、円だ。距離一定の回転。どこにも向かえないメリーゴーランド。
──ねぇ、私のこと好き?
──奥さんと別れてくれるんだよね?
──いつものホテルに行けばいい?
──ちゃんと薬飲んだよ。
回りながら流れ込む彼女。想いは淀み、どろどろの澱となって堆積していく。
「こっちだ」
気付けばそう口にしていた。
―――
我は
だがあの男は違った。覗いた我が驚いた。その身に巣食うは百の怪異。我が死の間際、男に残した呪いはただ一つ。
――聞きたくない声ほど、よく聞こえよ。
さあ、男よ。
その女怪異の泣き声も、願いも、全部聞け。
逃げずに聞き続けろ。
―――
私はメリーさん。
こっちだ?
電話越しに聞こえた私を呼んでくれる声。罠、だろうか。けれど私に選択肢はない。進めないのだから。戻れないのだから。彼に言われるがまま、距離を保ってついて行く。
―――
僕はユウキ。お兄ちゃんの弟。
口の裂けた女の人に会って、そこで終わったんだ。それからずっと、お兄ちゃんのまわりをふわふわ漂ってる。
お兄ちゃんが化け物を殺して回るのは、僕が化け物に殺されたから。
でもね──
お兄ちゃんは本当は優しいんだ。
刃物を振るうとき、胸の奥がぎゅっと痛むのを僕は知ってる。化け物を倒しても、ひとつも嬉しそうじゃない。ただ「もう誰も失わないように」って、それだけ。
ねぇ、お兄ちゃん。
僕はもう大丈夫だよ。
お兄ちゃんの愛はちゃんと届いてる。
だから、お兄ちゃんは──
今度こそ、自分のために進んでいいんだよ。
―――
俺は怪異ハンター。
工事現場の薄い壁に背中を預け、彼女を待つ。見えなければ近付ける。そう思った。
―――
私はメリーさん。
彼が薄い壁越し、私を待っている。これなら、近付ける。2センチメートルの壁越し、私も背中を預けた。
「わたし、メリーさん。今あなたのうしろにいるの」
「そうか」
あたたかい。そう感じた。
―――
俺は怪異ハンター。
ぺらぺらな壁越し、彼女の息遣いを感じる。
「もう電話はいらないな」
胸ポケットの電話を切る。さて、ここからはルールの外だ。何が起こるかなんて、俺にも分からない。
―――
私はメリーさん。
電話が切れた途端、喉が開いた。そうだ、いつも最後は自由に言葉を紡げた。魂をいただくまでのひと時の自由。
「名前、教えてください」
そう、聞いていた。
「
「わたし、メリーさん」
「そりゃそうか」
彼の優しげな笑い声に、心があたたかくなる。
「さて、これからどうしたもんかね。お前さん、本当はこんなことしたくなかったんだろ」
「そう、なのかな。そう……なのかもしれない」
「本当はどうしたかったんだ」
彼の言葉に、ずきんと胸の奥が痛む。私は、私は──
「……愛されたかった」
紡いだ言葉が、夜の風に吹かれて回る。
「そうか。愛されたかったのか」
「うん……」
彼の言葉に、涙が溢れた。溢れた涙がこぼれないように、見上げた空。星がきらきらと瞬く。
「星、きれい。空なんて、ずっと見てなかった」
「ならよ、俺と一緒にいろんな空、見に行くか?」
え、と声が漏れた。私は彼の死角にしかいられないのに、そんなこと、できるわけがない。
「ルール上、『今あなたのうしろにいるの』って言ったあとの流れは?」
彼にそう言われ、ハッとする。そうだ、そのあとは対象の前に姿を晒し──
「でも私、相手の命を奪っちゃうの。私の意思とは関係な──」
「それならそれでいい。実はよ、少し疲れてたんだ。いつまで俺はこんなこと続けるんだろうなって。ああでも勘違いするなよ。別に死ぬつもりはねぇ。俺はその辺のやつより魂は強い。簡単に殺されたりはしねぇ」
「でも──」
彼が死ぬのは嫌。そう、思った。
「……それに私、たくさんの人の命を奪ってきた。そんな私が何かを望むなんて──」
「メリーバッドエンドだな」
「メリー……バッドエンド?」
「主人公にとっては幸せでも、周囲から見ると純粋なハッピーエンドじゃないだろってやつだ。お前さんはたしかに罪を犯したのかもしれない。許されないのかもしれない。けどな、どうだっていい。お前さんの物語の主人公はお前さんだ。そろそろよ、好きに生きたっていいんじゃないか?」
涙が、溢れた。私は、私は──
彼と一緒に、色々な空を見たい。
「そうだ、」
私たちを隔てる壁越し、彼の声が続く。
「俺のコードネーム
自分たちのメリーバッドエンドを迎えられる気がするんだ。
響いた彼の声が、果てしない空の彼方へ吸い込まれ、きらきらと瞬いた。
──2センチメートル 越えて 空(了)
2センチメートル 越えて 空 鋏池穏美 @tukaike
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