エピローグ 8分間の道化師

 夕刻、19時半。新宿駅のホームで、音が一瞬消えた気がした。


 次の瞬間、私はその“8分間”に閉じ込められる──



☆☆☆


 新入社員とは甘やかされなくなって残業も増えてきた。


 気づけば新宿駅のホームでは半袖だった人々が薄手の上着を羽織る姿が目立つようになってきた。


 ──もう秋なんだなぁ。


 私は春からずっとリクルートス―ツのままだ。季節を感じる暇もなく時間だけが過ぎていったようだった。


『夏は遊園地に行ったよね』


「え……!?」


 驚いて振り返った。私の後ろに並んでいたおじさんの方が驚いた顔をしていた。


 すみませんと謝り前を向く。


 ……幻聴を聞くほど、私は疲れていたのかもしれない。


 せめて自宅のある駅までは座っていようと、わざわざ快速を一本見送り、15分立ち続けて次の快速を待つのが最近の習慣だった。


 到着駅までは30分以上かかる。最後の気力を振り絞り15分立ち続けた方が結果的に癒される。


 しかし、この日から快速は“癒し”の時間ではなく、“恐怖”の時間となった。


 いつものように座席を確保してまどろんでいた時だ。


 ──音が消えた。


 ハッとして顔を上げた。そこには、“正面の座席”にはサーカスに出てくるような道化師ピエロがいた。


 満員電車の中で正面の座席が見えるなんておかしい。他の乗客はどこに行ってしまったのか。


 だが、座席には隙間なく乗客が座っている。ただ、立っている人々だけ間引きしたかのように私と道化師の乗る車両には異様に少ないようだ。


 道化師は真っ直ぐに私を見つめて涙のメイクを見せながら昏い笑いを浮かべていた。


 ぞっとした。背筋に冷たい氷を入れられたかのように、爪の先までひんやりと冷えていく。


 次の駅で降りよう。そう思って電光掲示板を見たら、下北沢から電車は発車したばかりだった。


 ──最悪の状況だ。


 快速に乗ると下北沢から登戸まで八駅分──たった八分間。それは、逃げられない悪夢の密室だった。


 いや、そもそもなんで見なくてはいけないのか。目をつぶって眠ったふりをすればいいだけだ。


 しかし、目をつぶっている間にあの道化師が席を立って私の方へ近づいてこないという保証はない。


 見張る意味でも道化師の方を見ておいた方がいい。動き出したら即逃げる。


 しかし、肩を張って目を見張ってじっと耐え忍んでいても、道化師は何をするわけでもなく、ただ私を見つめながら笑っているだけだった。


 ──それが余計不気味なのよ。


『間もなく登戸~登戸~』


 音が戻った! 気づけばがやがやとした人々の気配も戻ってきている。


 私は道化師の方を振り返ることなく席を立つとドアに張り付き、滑り落ちるように登戸で降りた。


 その瞬間、また耳障りな甲高い声が聞こえてきた。


『──ごめん、他に好きな子ができたんだ』


「この──!」


 くそやろう、と言ってやりたかったが、あたりを見渡しても、あの道化師はどこにもいなかった。


 よりにもよって一番思い出したくない今年一番の最悪な言葉を口真似するとは、まさに人を馬鹿にする道化師だ。


 家に帰りついてからスーツを脱ぎ捨てて、パーカーに着替えると腹立たしさが蘇り、缶ビールばかりが消費していった。


 大学時代から付き合っていた元カレとは今年の春まで結婚するものだと思っていた。


「結局、男は若くて可愛い子がずっと好きなのよね。バッカみたい」


 痛みの数だけ、悪態が増える。どうしたってやりきれない思いだ。私たちは美少女フィギュアではない。


 年の数だけ傷みもあるだろう。汚れも、消せないしわの奥に隠した罪も。


「傷つけないで生きて行けるか! 傷つかないで生きて行けるか! 痛まないで老いていけるか! だからって置いていくなよ!」


 涙と鼻水を流しながら、ぐいっとビールを喉に流し込む。


 そして今日も記憶は薄れて眠りにつく。





☆☆☆


「……また居る」


『アイスクリーム美味しいね!』


「口真似すんな!」


 今夜も下北沢から快速が発車した途端、現れた道化師。音は消えたが、今度は喋るらしい。


 道化師ピエロはにやにやではなく、大笑いした顔で私を見てくる。


「あんた、なんなのよ?」


『あんた、なんなのよ?』


 だめだこいつ。人の口真似しかできないようだ。


 道化師はボールでジャグリングをしたり、サーカスの妙技を披露しているが、乗客の誰も気に留めていない。


 つまり、この道化師が視えているのは私だけなんだろう。


 たちの悪いストーカーに出会った気分だ。あるいは犯罪者だろうか。


 下北沢から現れるから8分間は絶対に逃れられない。


 かといって快速の速さという誘惑には疲れた体は抗えない。


 それにしても、春に元カレとは別れているのに、私は一体“誰”と遊園地に行ったのだろうか。


 思い出そうとしても、ビールを飲みすぎたときみたいに思考がぼやけて思い出せない。


『相手の女は誰よ! 女子大生!? まさか女子高生じゃないわよね!?』


 ああ、そうだ。言った。私はそう言って詰め寄った。音の消えた車両の中、鮮やかに彼の声が蘇ってくる。


『誰だっていいだろ。もう別れるんだし、お前には関係ない』


 三年間尽くした心が砕けた音が聞こえた。カラン、コロン、とガラスのかけらのように地面に散らばって行って──彼はそれを踏みつけながら歩み去っていった。


 足の裏から私の心を踏みつけた彼の血が流れだして血の跡を残していくようだった。


『──じゃあさぁ、彼を尾行すれば女もわかるじゃん』


 私の声とよく似た声が車両に冷たく響いた。


 電車のドアが開く音が聞こえる。私は席から立ち上がらずにそのまま座り続けた。


 道化師の姿は消えていた。




☆☆☆


 今日はハロウィンだった。


 街の中は思い思いのコスプレ姿ではしゃぐ“若い子”たちで溢れかえっていた。


 ハロウィンナイトはこれからという時間帯に私は新宿から小田急線快速に乗って座席に座る。


 ──道化師ピエロのお面をかぶって。


 車両に生ぬるい風が吹く。


 あの人が笑っていた。手を繋いでいたのは、私と同じくらいの背丈の女性だった。


──違う。そんなはずはない。


そうよ、あの子よ……あんな小さな手を、あの人が……。


『お母さん、全然お迎えに来ないね。暇だね。おねぇちゃんと遊園地に行こうか』


 近くに遊園地なんてないけれど、このくらいの年の子は大きめの公園でも遊園地だろう。


 私だってあの人に一度だって連れて行ってもらったことなんてなかった──だから、遊園地に行こう。あの人が連れて行かなかったから、私が代わりに。


 下北沢から乗り込んだいつもの道化師は“あの日の”私の口真似を披露する。


『アイスクリーム美味しいね!』


 まさか、小学生──それも低学年なんて。あと何年“若い”ままなのよ。


『ねぇ、花火が上がるんだって。よく見える場所に行こうよ』


 母親もまだ三十代ですって。遺伝的に“若くて可愛い”のね。


『踏切を超えても大丈夫よ。だってあの電車はすぐそこの駅で停まるもの』


 アイスが落ちた。警報が鳴り響いていた。


 赤い光が頬を照らす中で、少女は笑っていた──私も笑っていた。


 私は涙を流しながら大笑いした。


「あはははははははあははははははあはっははあはははははあはははあははははははは──」


 自分の声が“誰かの声”と重なっていた。


 ──だけどもう、なんだっていいや。


「あはははははははあはははははっははははははあははあはははははあははあははは!!!!

 快速急行は止まらないのよ! 下北沢から登戸まで8分間は止まらないのよ!!」


 笑いすぎて道化師の仮面が剥がれ落ちる。


 そこに映ったのは──


 “正面の車窓”には──いつも通り、下北沢から現れる道化師の姿。


 ──そして、次の8分間が、また始まる。 






☆☆☆


 お気に入りのドライブデートに飽きると、たまに好青年な姿に固定して電車の旅を楽しんでいた。


 凪咲なぎさは今も大学に通いながら、俺たちの新居でお嫁さんもこなしてくれる。


 ちなみに凪咲なぎさの第一志望だった大学には何度も視察に行っていたので、俺もたまに姿を固定して、鎧の騎士や、幼馴染の僕、禁断の恋の神様などを懐かしく思い出しながら、遊びに行っている。


 というのは建前で、凪咲なぎさに悪い虫が付くのを防ぐためだ。


 無論、俺は戸籍も用意してちゃんと凪咲なぎさと結婚しているが、用心するには越したことはない。


 すべて凪咲なぎさが可愛いのが悪い。


「セツナ、まだサンタクロースを続けていたの?」


 今は俺の仕事を凪咲なぎさが見学したいと言うので連れてきたところだった。


 もう本当の役割と俺の正体については凪咲なぎさに明かしていたので、まだサンタクロースの仕事をしている俺のことが不思議らしい。


凪咲なぎさの見ている俺の姿の方が役目を気に入っているんだ。それに、最近じゃ俺のプレゼントを喜んでくれる人間も増えたんだぞ」


 愛らしい凪咲なぎさはチョコレートをつまみながら笑顔を弾けさせた。


「そうなんだ! 良かった」


 俺の永久不滅の恋人、凪咲なぎさなら喜ぶと思っていた。


 しかし、最近、喜ぶ患者──もとい思考の狂った人間たちを喜ばせられるようになったのは、凪咲なぎさの助言のおかげだった。


 『無理に正しさへ導いちゃだめよ。私たちのように他人から見れば狂っていたって、当人には幸せなことも、当人たちにしかわからない幸福の在り方もあるんだから』


 凪咲なぎさがそういうならそうなんだろう。


 そういえば、死体になっても旦那と一緒に居たいと願った主婦は幸せそうだった。


 あの時は単なる実験のつもりだったが、よく考えたら、あの一件だけが喜んでくれた一例だったんだよな。


「あの子もあんなに笑って幸せそうだもんね」


 泣き顔はメイクだもんな。大声で笑っているんだから、あれは喜んでいるんだろう。


「実はもう鏡の性質になるのはやめようかと思っているんだよな」


「どうして? 信者さんたちがびっくりしちゃうから?」


 確かにそれもある。信仰心が強いとどうしても化け物にみえてしまうからな。


「いや、目に映るものがすべてじゃないのかもなぁって思い始めて」


 凪咲なぎさがきょとんとした顔になったと思ったら、急に笑顔になった。


「セツナ凄い! こんなに長く生きているのにまだ成長するのね!」


 褒められている。むずがゆい。そんなに可愛いと電車の中なのに凪咲なぎさを食べてしまいそうだ。


凪咲なぎさのおかげだよ。凪咲なぎさと一緒に居るために色んな奴らと出会ったんだ。そこでさ、全然上手く導けなくて、まぁ俺の純粋な怒りを買った馬鹿もいたけど」


 あーんとしてくれる凪咲なぎさからチョコを貰う。口の中が甘い、凪咲なぎさの指は後で食べよう。さらに甘くて幸せに決まっている。


「見えているものだけが真実とは限らない。だけど、目に映る真実もあるのよ」


「どんな?」


 凪咲なぎさは顔を赤くして俺の手を握った。


「……ここに、セツナに恋する幸せな女の子が見えないの……?」


 嗚呼、俺の理性を一発で飛ばしてくる最強の彼女。


 俺の口に自分の指を自ら差し入れて、顔を赤らめている。


 で、「早く私を食べて」のサイン。


 ここから先は俺たち恋人たちの時間だ。


 悪いがそろそろ帰らせてもらおう。 


「そんじゃ、Happy Halloween & Merry Christmas──永遠に」





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鏡写しのサンタクロース 6月流雨空 @mutukiuku

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