後編

 大学を卒業すると、私は昼は小さな商社で働き、夜は寝る間も惜しんで小説を書いた。幾度となく新聞や雑誌の懸賞小説に応募したり、出版社に原稿を持ちこんだりしたが、懸賞にはいつも落選するし出版社からは梨のつぶてで、一向に芽が出ない。あれよあれよという間に五年が過ぎ、自分に才能のないことを痛感して、いつしかペンを執ることも少なくなっていった。


 そのあいだに見合いで結婚したが、私はどうしても妻の千代子を愛することができなかった。伊吹と過ごした最後の日々の予想に反して、私は彼のことが忘れられなかったのだ。千代子は気立ては好かったが私と同様に口下手で、私と違って本を読まなかったから、会話は弾まなかったし、寝室でも違和感を拭えず、肝心の行為に及べないこともあった。


 だが、当の伊吹とはあれから一度も会っていなかった。手紙の遣り取りはしていたが、会って話をしないかという誘いは、いつも多忙を言い訳に断っていた。顔を合わせたら、せっかく押し殺した気持ちが溢れ出してしまいそうだったからだ。

 三年も経つと、私は小説家として世に出ていない自分が恥ずかしくなり、伊吹を諦めきれない自分が怖くなり、手紙をもらってもあえて二、三箇月してから返事を出すようになった。内容は当たり障りのないものにし、文字数も便箋一枚にも満たない程度に留めるようになった。


 そんなある日、私宛てに小包が届いた。差出人の名前や住所はない。

 怪訝に思って開けてみると、入っていたのは日記帳だった。表紙には伊吹の名前が書かれている。


 どういうことだ……?


 人の日記を盗み見るなんて破廉恥極まりないおこないだが、わざわざ送ってきたということは私に読んでほしいということなのかもしれない。自分にそんな言い訳をしながら日記帳を開くと、


 青柳君に会いたい。


 という一文が目に飛びこんできた。人参を見つけた兎のように心臓が飛び跳ねる。


 馬鹿なことを考えるんじゃない。単に友達として会いたいという意味に決まっているじゃないか。


 自嘲してページを繰っていく。一頁捲るたび、私の心臓の鼓動は病気でも患っているかのように速くなり、呼吸は全速力で長距離を走ったかのように荒くなっていった。


 青柳君はどうして近頃あまり手紙をくれないのだろう。くれても素っ気ない手紙ばかりなのだろう。小説家として世に出ていないことを恥じているのか? そんなことで人間の……青柳君の価値は下がったりしないのに。それともまさか、とうとうぼくの邪念に気づかれてしまったのだろうか。


 昨夜も美禰子を抱きながら青柳君のことを考えてしまった。ぼくの腕の中にいるのが青柳君だったらいいと、ぼくの腹の下で喘いでいるのが青柳君だったらいいと思ってしまった。こんなこと、美禰子に対しても青柳君に対しても裏切りだとわかっているのに。


 昨夜は下宿時代の……青柳君の夢を見た。といっても現実に起こったことじゃない。部屋で一緒に酒を飲んでいたら、青柳君が突然ぼくに恋心を打ち明けてくれたのだ。もちろんぼくも同じ気持ちだと答えた。ぼくたちはどちらからともなく唇を合わせ、ぼくは青柳君の服を毟り取るように脱がせ、体中の至るところに接吻し、今までの想いと欲望の全てを叩きつけるようにその体を貪った……。


 そこに綴られていた想いは、どんな捻くれた読み方をしても、友情とは捉えられないものだった。


 戸惑い、羞恥、喜び、悔恨、遣る瀬なさ――さまざまな感情が胸の中で渦巻いたが、何よりも大きかったのは疑問だった。


 どうして、伊吹さんはぼくにこれを送ってきたんだ……?


 だが、どんなかたちであれ尋ねる勇気はなかった。手紙で尋ねるようなことではないし、だからといって会うなんて考えただけで体が焼け焦げそうだ。どんな顔をすればよいというのか。


 夕食はほとんど喉を通らず、私は体調が良くないから早めに休むと千代子に言って部屋に籠もった。初めて恋をした少女のように日記帳を捲っては抱き締め、動物園の熊のようにうろうろと歩き回る。

 布団に入っても日記帳に記された文章が脳裏を駆けめぐり、結局朝まで一睡もできなかった。


 翌朝、習慣から、見るともなしに新聞を見ていた私だったが、


〈敏腕弁護士、妻に刺殺せらる〉


 という見出しに眠気を吹き飛ばされた。


 弁護士なんて大勢いる。伊吹さんのはずがない……。


 自分に言い聞かせて記事に目を移すと、伊吹正太郎と美禰子という名が、そこだけ赤字で書かれているかのようにはっきりと見えた。心臓が不吉な律動リズムを刻む。顔から血の気が引いていく。突然冬になったかのようにまわりの温度が下がる。


 伊吹さんが死んだ? 殺された? それも奥さんに? そんな、嘘だ、何かの間違いだ……。


 そう思いたかったが、天下の東京毎朝新聞がそんな嘘をつくとも、間違いを犯すとも思われない。


 美禰子は犯行の動機を、夫に他に愛する人がいるとわかったからだと語っているという。そのくだりを読んだとき、私は頭と胸を金槌どころか大岩で殴られたような気がした。


 他に愛する人がいた……。愛する「女性」ではなく愛する「人」が……。


 おこりかかったように体が震え出す。私のことだ。きっと私のことだ。美禰子はどうかして伊吹が私を愛していたことを知って……。


 いや、「どうかして」ではない。美禰子はあの日記帳を盗み見たのだ。そして伊吹に殺意を抱き、私に日記帳を送りつけてきたのだ。夫の愛を盗んだ――いや、婚約するまえから盗んでいた男に復讐するために。


 私は絶叫して頭を搔き毟った。「どうしたの、あなた!?」という、狼狽した千代子の言葉にも返事ができなかった。


 私はどうすればよかったのだろう。

 伊吹に想いを打ち明けていればよかったのか。

 伊吹の婚約を止めていればよかったのか。

 だが、それで私たちは幸福になれていたのだろうか。

 まともな人間なら結婚するものだと、同性同士で愛し合うなんて異常だと見做されているこの世の中で――。


 いずれにせよ、これから私が選ぶべき道はひとつだ。

 それが正しいか間違っているかなんてわからない。いや、きっと間違っているのだろう。

 それでも私はもう、自分の魂が望む道を選びたいのだ。

 かつて、周囲の反対を押し切って文学の道に進んだときのように。

 文学への情熱は実を結ばなかったし、伊吹とも、この世ではお互いに愛し合っていることさえ知らぬままだったけれども――。


 まだ体調が良くないから、今日は仕事を休むと千代子に言い、私は無意識に新聞を握り締めてふらふらと部屋に戻った。


     ***


 青柳は万年筆を置いて息をついた。

 これを見たら、千代子も美禰子のように私を殺すのだろうか。

 頭をよぎった考えを、かぶりを振って追い払う。

 これはあくまで自分の気持ちを吐き出すためだけに書いたものだ。愛されていないと知りながらも自分に尽くしてくれた千代子をこれ以上苦しめ、殺人の罪を犯させるなんて残酷なことはできない。だいたい、千代子はそんな大それたことをする女性ではないだろう。

 ――いや、だがそれも、自分を少しでも善良な人間だと思いたいがための自己欺瞞かもしれない。

 予定どおり、この原稿用紙は、今日千代子が買い物に行っているあいだに庭で燃やそう。

 そして――。

 青柳は鍵を回して机の抽斗ひきだしを開け、青酸カリの瓶を手に取って目の前に翳した。瓶の向こうに伊吹の笑顔が透けて見え、自分を呼んでいるような気がした。


〈了〉

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