最終話 アザだらけのりんごタルト
あれから一年が経った。
閉鎖の時期をひと月だけ延ばすことと、退職手当に賠償金をなんとか上乗せすることができたものの、工場の門を閉めるという決定は覆されなかった。
私がストライキを支持して本社と対峙したことは重大な職務違反だった。にもかかわらず即座に解雇されなかったのは、本社にすれば捨て駒が最後の悪あがきをしたに過ぎなかったのだろう。
工員の再就職先を斡旋するという約束を取りつけ、私は工場の閉鎖とともに辞表を出した。
二十五年務めた会社生活の幕切れはあまりにも淋しいものだった。だが、あの数か月で自分の見失った何かを取り戻すことができたのなら、最後のあがきも無駄ではなかったと、ふと思うことがある。
工場の跡地にはショッピングセンターが建設予定だという。あの町の満天の星空も、いずれ無個性なネオンの星が取って代わるのだろう。避けられない時代の流れとはいえ、その光景を見なくて済んだのは幸いかもしれない。
みんなに温かいスープを振舞ったあと、ノラは店を閉め、姿を消した。彼女の連絡先を知っている者は誰もいなかった。あの店に行けばノラがいる。それだけが我々の知っているすべてで、ずっと変わらないはずの事実だった。
今でも目を閉じれば、あの星空とドラム缶の炎に照らされた彼女の顔がまぶたに蘇る。甘酸っぱい感傷がひたひたと胸を浸していく。
それもいつか美しい記憶となって遠ざかってゆくのだ。あの夜がまるで幻であったかのように。彼女という星が本当に存在したのかさえ、心許なくなるほどに。
*
「工場長、ちょっといいかい」
契約農家との電話を終えたところで、古株である眼鏡のじいさんが話しかけてきた。彼はいつも黒い腕カバーをつけている。
ストライキの報道を見て私に目をつけた物好きなある地方の企業が、私を拾ってくれた。なんと今度はりんごジュース工場である。全国的な家電メーカーから細々とした地場産業への華麗なる転身というわけだ。
だが私はこの日々に満足している。
工員の手で一本ずつ瓶詰めされていくりんごジュースは、スーパーに並ぶことのない傷ものを使っている。風に吹かれ、地に落ちてアザだらけになったりんごを生き返らせるのは、なんだか自分自身を生き返らせるような気持ちになるのだ。
眩しいきらめきとは縁のない、目立たない星の下に、私は自分の新しい居場所を見つけたところだ。
じいさんは眼鏡の縁を押し上げながら私を見上げた。
「最近できたタルトの店、知ってるか? うちの契約農家と同じりんごを使ってるそうだが、安くて美味いと評判なんだ」
「いや、知らんね」
「そこがうちのジュースを店に置きたいと言ってるらしい。どうだい、ひとつ味見してきちゃ」
「ほう。じゃ、昼飯のあとに寄ってみるか。で、店の名前は?」
*
その店は町はずれの通りにぽつんと佇んでいた。こじんまりとした店の前には行列ができている。ドアの隙間から甘い香りが漂い、入り口のわきに置かれた籠にはアザだらけのりんごたちが誇らしげに並んでいる。
提げられたその木の看板を私はずっと見つめていた。全身が震えている。
『シェ・ノラ』
それは、あの見慣れた文字であった。
高鳴る胸をこらえながら行列の最後につくと、店の裏口の扉から下働きらしき女がりんごの空箱を持って出てくるのが見えた。
いや、下働きの女ではない。──もう間違えない。
ふいに女が振り返り、私たちの目が合った。
大きな声でその名を呼ぶ代わりに、私は長い間忘れていた満面の笑みを彼女に投げかけた。
了
ノラの食堂 輝きそこなった星の群れ 柊圭介 @labelleforet
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