第4話 クズ野菜たちのスープ
本社との長い電話のあと、私はぐったりとして窓際へ頭をもたせかけた。
話し合いは平行線だった。工員に対する解雇の条件改善を求めてはみたが、本社の返答はいつも法律の抜け穴をかいくぐるような、のらりくらりとしたものばかりであった。
チーズのタルトを分け合ってから、工員たちは私を大テーブルへ誘ってくれるようになった。落書きを一緒に消したことで仲間意識でも芽生えたのだろうか。あれぐらいのことで心を許す彼らのナイーヴさはほとんど子供じみていると半ば呆れながらも、田舎訛りまる出しの賑やかな食卓は決して居心地の悪いものではなく、ときに馴れ馴れしすぎるほどの距離感は、まるで家族といるかのような錯覚を起こさせる。
だからこそ、私の心はふたつに引き裂かれていた。
──本社への復帰を約束する。
戻りたい。こんな工場のひとつやふたつ、なくなったところで何が変わる。私の目の前には命綱が用意されている。それにしがみついて悪いことがあるものか。恨まれようが、憎まれようが、私が私の幸せを追い求めて何が悪い。
開き直ろうとするほどに、心に虫食いの穴が空いていく。
私は誰を救い、誰に救われたいのだろう。
*
「交渉決裂につき、我々はストライキを断行します」
ジルの冷たい声が頭から離れない。
ドラム缶から焚火が燃え上がっている。
『工場閉鎖反対!』と書かれた横断幕と赤いテント。
プラカードを持って正面入り口の鉄柵の前に並んでいる、蛍光色のベストを纏った工員たち。
数日来、悪夢に見ていた景色だった。
しかし私は今、これを現実のものとして目の当たりにしている。
水面下の努力は、本社の見切り発車ともいえる公式発表ですべて台無しになった。地方紙は一面に報じ、テレビ局にも取り上げられた。
あっという間に寒々しい戦場と化した敷地を、私は事務室の窓から見下ろしている。
こうなった以上もう後戻りできない。確かなことは、これで工員と私の間に完全な亀裂が入ったということだ。彼らの目には、私が笑顔で一緒にテーブルを囲みながら陰で裏切った偽善者に映っているのだろう。
夜の帳が下りても彼らは退かなかった。ドラム缶の炎が意志を持った生き物のように暗闇の中で揺れる。
その鉄柵の向こうに、一台のバンが止まった。助手席から出てきたのは、浅黒い肌の小柄な女──ノラだ。
向こう側が針の筵だということも忘れ、私は思わず事務所から飛び出した。
「さぁ、飲んどくれ。あったかい野菜のスープだよ」
テントの下で簡易コンロに置かれた寸胴からは湯気が立ち昇っている。工員たちは列をなしてノラ特製の差し入れを求め、ふうふうと息を吹きかけてひとときの休戦を貪っている。
だが私が近づくと彼らはあからさまに距離を取った。冷たい視線は外気よりも堪えた。
「所長、あんたも」
「いいのかい」
「あんただって碌に食べちゃいないんだろう」
火傷しそうな紙コップを受け取ると、ノラに促されるままベンチに腰かけた。香りのよい湯気が、張りつめていた心を和らげる。そっと口へ運ぶと、何時間も煮込んだ野菜の凝縮された旨みと、こっくりとした深い味が口の中へ広がった。
「もう発注ができなくなったからね、残り物のクズ野菜だけど、滋養はあるよ」
「発注ができないとは?」
ノラは小さくため息をついた。
「あんなことがあったから、お役所も支援を打ち切りたいのさ。店は畳む。みんなともお別れだ」
「そんな……」
「ありがたかったよ。みんな、あたしみたいな者と仲良くしてくれて」
「ノラ、ひとつだけ訊いてもいいか。あんたは、その──」
「殺人罪だよ、夫の」
私の問いを先回りするようにノラは低く言った。
「計画的だったからね。正当防衛は認められなかった。こんな歯にされても」
柔らかい野菜の甘みが喉元でつかえて飲み込めない。ドラム缶の炎に照らし出された横顔は凛としてあまりにも悲しく、背中に落ちた影が暗く重たい。
「……これからどうするんだ」
「さあね」
「なら──」
私はノラに正面から向かい合った。
「私と一緒にやり直さないか。今なら本社へ戻れる。あんたの歯だって治せる。きっとやり直せるよ。だから私と」
「ありがとう、でもそれは遠慮させてもらうよ」
ノラは私の顔を見て微笑んだ。
「言っただろう、この顔があたしの看板なんだ」
私は言葉に詰まった。自分の浅はかさが恥ずかしくなった。この人は自分の力で道を切り拓いてきたんじゃないか。思春期のような衝動に任せて、なんという馬鹿なことを口走ったのだろう。
「でも……嬉しいよ、所長さん」
ノラの顔を見ることができなくて逸らすように空を見上げた。そこには満天の星がきらめいていた。都会では決して見られなかった景色だ。
「……ここへ来て初めて本当の夜空を見た気がするよ」
そう言うとノラも目を細めて空を見上げた。
「きっと見えない星もいっぱい隠れてるさ」
「そうだろうな」
「あたしらとおんなじだ」
「え?」
ノラはゆっくりと、慈しむような目で工員たちを見回した。
「あたしらは輝きそこなった星の群れだ。あのやかましい若いのも、あそこの見習いも、あのくたびれた親父も。明るい星に隠れて見えないけど、あたしらだってひっそりと生きてるんだ。輝きそこなっても、地に足をつけて生きようとしてんのさ。もしかしたら、近くに寄ってみればいちばん輝いてるかもしれない。ここからは暗くて見えないけど、近づけばどんなに明るい星より光ってるかもしれないよ」
焚火が小さく爆ぜる音がした。私はおそるおそるその横顔に尋ねた。
「私も……その星の仲間に入れてもらえるだろうか」
「もちろんさ」
前歯のない笑顔をこれほど美しいと思ったことはなかった。
もう一度夜空を振り仰いだが、星はこみ上げたものに霞んで見えなかった。
私はベンチから立ち上がった。テントで蛍光色のベストを借りると、上着の上から羽織った。そして鉄柵の前に立っている男のところへ行ってこう言った。
「そのプラカード、私に持たせてくれ。私はあなた方と一緒に闘う。一歩も譲らず、本社と交渉する」
もう迷わない。私のいるべき群れはここだ。
あたりからまばらな拍手が起こった。
小さな拍手は少しずつ広がり、大きな歓声に変わった。
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