自動紙芝居

 星の数こそ全くふるわないが、巨大な水槽の底に敷かれた石ころには、若生竜夜さんのような書き手が数多く静かに沈んでいる。そのどれをめくってみても、もやもやと砂煙を吐いて、一文字たりとも疎かにはしないという研ぎ澄まされた独自の文章世界をぎらっと鋭くのぞかせる。
 だが哀しいかな、錦のひれを見せつけて悠々と水面近くを泳ぐ魚さんたちからは、「意味不明」「独りよがり」と瞬殺されることが多い。

 言葉遊びでしょこんなの。
 自己満足の詩?

 押し退けられて顧みられることもない。

 おそらくそういった方々は、言葉の連なりから自然と脳裏に想起されるイメージ力が、かなり限定的なのだ。
 事細かに全て説明されていないと「分からない」という。
 疑問が浮かべば「難しい」と放り出す。
 本編を書く前にまずは三十倍くらいの完璧なプロットと設定を作り、どんな読者も説明描写で満足させて理解させ、質問にもたちどころに即答するのが優れた書き手の証拠。
 なのにこんな曖昧な書き方で、ひとに理解される努力をさぼってる。お前たちには小説を書く資格がない。

 そんな方が読めば、冒頭の五行で挫折してしまう。

 わたしに云わせればそんな方のほうが(『そんな方』ばかり書いて恐縮である)小説を書く人の中ではレアなのであって、頭の中のイマジネーションを鍛えてきた方の方が多い。
 読めば、ふわっと、映像が浮かぶのだ。
 そのイメージはそれぞれに異なっており、作者と読者のあいだで大きく隔たってしまうことも多々あるのだが、とにかく文字を読めば脳裏にその映像が浮かぶ。

 わたしはその解像度が低い方だと自認している。
 漫画や映画のように細部の細部までくっきりと浮かぶんです! とまで詰められると、そこまで明瞭ではない気がするからだ。

 半透明の紙をいちまい挟むようにした、だいたいのイメージ幻燈。
 その程度ではあるが、ともあれ浮かぶには浮かんでいる。
 自動紙芝居といってもいいそれは、文章の上にはしる目と連動しており、次々と広がって、自分の中に絵巻として色づいてくる。
 描いてみて下さいと画用紙を渡されたら、あらためて文章から想起したものを組みなおして、それなりに描くことが出来そうなほどに。

 揶揄されるような、言葉遊びの側面も確かにあるかもしれない。
 なぜそうなるのかというと、手垢のついた表現をそのまま書くということを避け、言葉の可能性を探り、深く深く物語の中に沈みながら、自分の感性にぴたりとくるものを模索しているからだ。
 これしかないとなれば、凡庸な一文を書くかもしれないが、それは熟考した末での選択であって、一文字一文字、苦心して悩みながら刻んでいく。

 夜は、朱鷺色かもしれない。
 人間は、土中に潜るのかもしれない。

 ばかみたい。言葉遊びなんて簡単でしょ? とばかりに素養のない者が試してみても、悪戯に言葉を扱うばかりで、散漫で、自己顕示的で、ただうるさい仕上がりになってしまう。
 やはりそこには作者の偏愛じみた美学や習練が必要で、そうでなければ書く端から空中分解してほどけてしまうことだろう。

 選ぶ言葉ひとつひとつに、小さなビーズを編み込むような神経を尖らせているその時、それは作者が意図をもって或るいちまいの織物を仕上げている。
 作者が提示するその全体図を、読み手がふわっとでもいいので頭に浮かべて受け取ることが出来るか否かが、この手の作品には必要とされる。

「平易な言葉を用いて、一発ですらすらと分かりやすく、誤解なく、読者全員に同じ感想を持たせて共感させて、なおかつ優れているもの」
 こんな作品を書くのもそうとうに難しい。
 同時に若生竜夜さんのような、
「徹頭徹尾、作者の独りよがりで職人のように極めたもの。一部の好事家に熱狂的に愛されるもの」
 こちらの作風にもわたしは強く惹かれてしまう。
 どちらも、凡才には出来ないことだからだ。