雲隠の向こうへ

 先行レビュー葵春香さんと似たようなことを書くがご容赦いただきたい。

 源氏物語の最終巻は「雲隠」と名を打ったのみで、それにより光君の出家と死去を暗示させる仕掛けになっている。
 本文が実はあった、いややはりなかった、諸説があるが、もし最初から狙ってこのようにしたのなら、まことに憎い演出である。

 同時に読者はこの白紙に、半生をかけて長々と書き綴ってきた王朝絵巻の筆をおいた作者紫式部の、蝋燭が燃え尽きるまでを見届けるにも似た、心の空洞も見る気がする。

 若かりし頃のように充足感をもって意気揚々と完結させたというよりは、「ああ終わったのだ。光君は旅立ったのだ」と紫式部自身が、光君の退場に半身をもっていかれるような喪に服している気がしてくる。それは脱力感、寂寥感、空虚感のままに、どこまでも拡がって、濃霧か雲のように果てもない。

 光君の死にまつわるその前後の愁嘆場を書かない、というところに引き際を分かっている紫式部のセンスの良さと覚悟をみる。
 彼女の中に彼は生きた。
 続きを待ちわびて読みふけっていた大勢の読者の中に彼は生きた。
 大きな白い鳥が天に昇るようにして、つまり日本武尊の最期のようにして、彼(光源氏)はぐずぐずせずに、あくまでも一滴の岩清水のように、どこまでも美しく人々の前から消えなければならなかったのだ。

 おさまらないのは、読者である。
 あの後、光君はどうなったのだろう。
 想像はやがて、光君の最晩年に触れる二次創作を生み出していく。
 二次創作といっても、平家物語から生まれたバリエーションに代表されるように、優れた作品はそれ自体が立派な作品として世に残る。
『雲隠六帖』
 ここでわたしたちは、人々を魅了し続けたあの春の光の人の、彼を取り巻いていた華やかなる脇役たちの、その後の様子を少しばかり知ることになる。

 散った桜の、黒土の上で湿るのを見るような。そんな『雲隠六帖』への好き嫌いは分かれるだろうが、工藤行人さんの美しい現代語訳を通して、少なくとも原作をぶち壊しにするほどの二次創作ではなかったのだな、と知ることが出来るのではないだろうか。