値段のないものの値段

  • ★★★ Excellent!!!

住み慣れた街のただ中で道を見失い、自分がどこから来たのか、どこへ帰ったらいいのか、いや、そもそも帰るところがあったのかさえ、わからなくなってしまう。

誰だって生きていると、そういう瞬間がやってくるのかもしれません。

本作の主人公、幸田恒一が還暦を前にして直面したのは、まさに目ざすべき行き先を見失ってしまうような感覚でした。

これまでは当たり前すぎて、もしくは忙しくて、自分が生きる意味を立ち止まって考えられなかった、もしくは考える必要がなかったのでしょう。でも、一度立ち止まると、これまでそこにあると思っていたものが、もろくも崩れてしまう。

生きる望みさえ失いかけた恒一が、ある晩、不思議な古本屋で手に入れたのは、本作の副題と同じ『あなたの夢を買います』という一冊の薄い本。

作者さんは、この本の内容や、それがどんな夢なのか、誰の夢で、誰がそれを買うのかについて、何も教えてくれません。それどころか、この古本屋での出来事が夢のように描かれてもいます。

ひとつだけ、恒一がはっきりと心に刻むのは「夢には『値』がある」という古本屋店主の言葉でした。

一体それは、どんな値なのでしょう? どれくらいの値なのでしょう?

恒一にもわかりません。だって、夢に値段などつけられるでしょうか。

夢が安すぎるからではなく、逆に、高すぎるからでもない。そもそも値段がないものだからです。

百円か、一万円か、はたまた百万円か。値段がついているものなら、お金さえ出せば、どこかで買えるでしょう。でも、夢はどこにも売っていません。どんな店を探しても買えないのです。

でも、恒一は、幸か不幸かとぼしくなっていた所持金で、不可能なはずの「夢を買う」疑似体験します。

何もかも見通しがきかなくなり、自分の値打ちが信じられなくなった恒一は、そこで何かを信じてみることのできる自分を再発見する。

恒一が手に入れるのは、バラ色の「夢のような」生活とかではなさそうです。むしろ彼は、一度は見失いかけた、住み慣れた「我が家」への帰り道を見つけるのでしょう。

誰もが生きていれば出くわすかもしれない、静かだけど深刻な危機とそれを乗り越える物語。

でも、その内面のドラマを、ごくごく日常的な道具立てを使いながら、穏やかな筆致で描き切る作者さんに拍手を送りたくなる作品です。

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