【路地裏の一夜書房】~あなたの夢を買います~
神崎 小太郎
第1話 夢を買う店
男は、アパートから駅へ向かう馴染みの道を、あてもなく彷徨っていた。何千回と往復した景色が、今はなぜか自分とは別の人生の背景のように遠ざかっていく。
姓名は、幸田 恒一(こうだ・こういち)。
「幸」の字を授かったはずなのに、気づけばその幸せは、指の隙間から静かに零れ落ちていた。
一方、「恒」と名づけられた日常は、変わらぬ安定を約束するはずだった。
けれど、現実は残酷で、「一」からの再出発を幾度となく強いられる、底知れぬ転落の連続だった。
かつて家に響いた名を呼ぶ声は、今では冷え切った沈黙に取って代わられている。
ウィークリーマンションの営業一筋、四十年あまり。誠実さだけを武器に積み上げてきたキャリアは、会社が隠蔽していた「事故物件の無告知貸出」という不祥事によって、あっけなく崩壊した。
誰かの密告によって、週刊誌に晒された会社の過ちは、取り返しのつかない形で表沙汰になった。内部告発の余波は、中高年の坂に差し掛かった恒一を、リストラの四文字で無職の荒野へと放り出したのだ。
残ったわずかな金を握りしめ、彼は新たな職を求めて街を歩き続けた。靴底が擦り切れるほど歩いても、行く先は見えなかった。
家には、長年連れ添った妻と、失恋から心を閉ざした娘がいる。守るべき家族がいるのに、その力を失った彼だけが、家の中でぽつんと浮いていた。
駅へ向かう足取りは、四十年の習慣が身体に刻みつけた「勤め人のふり」に過ぎない。虚ろな胸の穴を、不況という名の木枯らしが容赦なく吹き抜けた。
「もうすぐ還暦か。……人生、ここで降りるしかないのかもしれん」
ビルの屋上のフェンスが視界をよぎる。遠くで電車が軋む音を立て急停止した。胸の奥がざわりと揺れ、恒一は自分の頬を強く叩いた。
「死ぬなんて……まだ、ありえない」
ふと漏れた独り言に、家族の顔が浮かぶ。財産などなかったが、妻とは喜びも涙も分かち合ってきた。反対を押し切って結ばれた恋愛結婚。
歯ブラシの色を間違えて笑い転げた夜。ビールを我慢して、発泡酒で乾杯した、あのささやかな幸せ時間。
ワークライフバランスと呼ばれる訳の分からぬ言葉を横目に、家族のためだけに馬車馬の如く働き続けた日々。
「俺は忠犬ハチ公か……それとも骨身を惜しまず働く馬か」と冗談めかして笑いながら、それでも帰る家があることが、何よりの誇りだった。
娘が幼かった頃の記憶が胸を刺す。近所の児童公園で一輪車に乗り、無邪気に笑う姿を、彼は何枚も写真に収めた。
ランドセルを背負った入学式。女子校の制服に袖を通したあの日。マリオカートのゲームで競い合ったひととき。そのすべてが働く理由だった。
「好きな人ができても、このアパートじゃ連れて来られないよ」
愛娘が嘆いた声が、やるせなく耳に残る。億ションに移り住むことなど、夢のまた夢。それでも、叶えられなかった夢ほど、胸に残るものはない。
気がつけば、恒一は行き止まりの路地裏に迷い込んでいた。
突然、湿ったアスファルトの匂いが鼻をかすめた。それは、遠い記憶の扉を叩くような匂い。仕事帰りの雨の夜、駅の改札で待っていた妻が、そっと傘を差し出してくれたときの匂いだった。
どこからともなく、季節外れの風鈴のような微かな音が揺れた。次の瞬間、一陣のつむじ風が吹き抜け、視界が暗転した。
*
やがて目を開けると、あたりの空気が渦巻状に立ち上がり、不思議な光景が広がっていた。細い路地の脇に、見たこともない一軒の古本屋が現れていた。
朧げな灯りが漏れ、店の看板には『一夜書房』と記されている。
不可解な魅力にとらわれ、古本屋の中を覗き込む。外見はこの世の書店とは思えないほど古めかしいのに、内側は本が整然と並び、ほこりひとつ落ちていない。
「来たか。待っておったよ」
奥の方から、男の声が届いた。地底の闇を這うような、重く湿った響き。恒一は思わず身をすくめ、声の方へと目を向ける。薄明かりの中、ひとりの老人が、ひっそりと立っていた。
白いあごひげは胸元まで伸び、まるで山中で百年を過ごした仙人のよう。だが、その目だけは驚くほど澄み、年齢を超えた聡明さを宿している。
老人の視線は、恒一の心の奥底まで見透かすようだった。よく見ると、どこか七福神の福禄寿を思わせる風貌でもある。
「……待っていたとは?」
恒一は戸惑いを隠せず、声が自然と上ずった。老人はゆっくりと微笑んだ。皺だらけの顔に刻まれた笑みは、どこか懐かしい温かさを帯びている。
「人は皆、社会や仕事に、そして自分に惑う時期がある。進むべき道を見失い、心を置き忘れる。そなたも、ちょうどその頃合いじゃった」
恒一は思わず息を呑んだ。老人のささやきは、まるで胸の内をそのまま言葉にしたようだった。
「ここは、ただの本屋ではないのですか?」
「その通りだ。迷い人がふらりと行き着く、人生の交差点よ」
「迷い人……? 交差点……?」
「店名を見たであろう。一夜で人生が変わる者もいれば、変わらぬ者もおる」
「変わらないって……それは、もう終わりってことですか?」
「ああ、それを知るために、ここへ来たのじゃ。それが、そなただ」
老人は、禅問答のような真意の掴みにくい言葉を口にした。
彼は古びた机の引き出しから、一冊の薄い本を取り出した。表紙には『あなたの夢を買います』と記され、木の実のような紙の甘い匂いが店内に漂っている。
「これは……?」
「迷い人のための本だ。ただし覚えておけ。夢には“値”がある」
老人は本をそっと差し出した。
「ここから先の人生を、どう綴るか。それを決めるのは、そなた自身じゃ」
恒一は震える手で、その謎めいた本を受け取った。正体の知れない重みが、苦渋の人生をも押しつぶすように、掌へ沈み込んだ。
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