最終話 夢が導く道

 真実一路モーターズで働き始めて数日。恒一は、出勤するとすぐにジャージの作業着を身に付け、無言で洗車やワックスがけ、車内の清掃に取りかかる。


 冬の冷たい水が指先を刺すように痛むが、不思議と苦ではなかった。むしろ、無心になれるこの時間が心地よかった。妻の痛みも分かった。


「幸田さん、めっちゃ丁寧っすね。なんか、車のボンネットじゃなくて、人の肌でも磨いてるみたいっすよ。中古車が新品に見えますもん」


 若いスタッフが、感心したように笑いながら言った。


「車はな、人と同じようなものだ。諦めずに磨けば、おんぼろと言われても、まだまだ若さを取り戻せるものだ」


 言いながら、恒一は胸の奥がじんと温かくなるのを感じていた。


 四十年あまりの営業人生で、いつの間にか置き忘れていた“誠実さ”と“自信”。それが、この小さな中古車店で少しずつ息を吹き返していく。


 昼飯を終えると、ロッカーからスーツを取り出し、接客に励んだ。最初はぎこちなかったが、お客さまの話を聞き、寄り添い、その人に合った車を提案するうちに、かつての笑顔溢れる自分が、ゆっくりと戻ってくるのを感じた。


「幸田さん、あんた営業に向いてるよ。うちに来てくれて助かった」


 どこで見ていたのかはわからない。それでも、一路社長の激励は、胸の奥にじんと沁みた。


 *


 ある夜、疲れて布団に倒れ込むと、またあの古本屋の老人が夢に現れた。


「そなた、新しい道でよく働いたな」


「……少しずつですが、前に進めている気がします」


「それでよい。人は一歩ずつしか進めぬものじゃ」


 老人は棚から、一冊の本をまた取り出した。 その表紙には、まるで彼を試すように『次の頁をめくる勇気』とあった。


「そなたの課題は、まだ終わっておらぬ。過去を恐れず、未来を諦めず、大切なものを迎えに行くのじゃ」


 その声に、恒一ははっと目を覚ました。 胸の奥に、静かだが抗いがたい灯がともっていた。


 給料日。初めての給料を、一路社長から手渡しでもらった。茶封筒を受け取った瞬間、胸が熱くなった。額は決して多くない。


 だが――

「自分の力で稼いだ金」

 その事実が、何よりも重かった。


 帰宅すると、窓辺に置いた宝くじが目に入った。大晦日の抽選結果を確認していなかったことを思い出す。スマホで番号を照らし合わせる。


 ――末等、三百円。


「……そうか。よしよし」


 七億円ではない。けれど、不思議と悔しさはなかった。むしろ胸の奥が、じんわりと温かくなった。


 小さな幸運が、今日の自分をそっと支えてくれた。夢破れて山河あり──いや、そんな立派な言葉ではない。ただ、心の奥に“まだ何かが残っている”と感じられた。


 仕事休みを迎えた日。恒一は、三百円の当たりくじを胸ポケットにしまい、コートを羽織った。向かう先は換金所ではなく、妻の実家だった。


 インターホンを押すと、妻が驚いた顔で出てきた。娘も後ろから何が始まるのかと顔をのぞかせている。


「あなた、どうしたの……?」


 恒一は、深く頭を下げた。


「ふたりを迎えに来たんだ。お金は……まだそれほどない。ごめんなさい。でも、働いている。少しずつだけど、前に進んでいる。だから……帰ってきてほしい」


 給料袋を差し出すと、久しぶりに会った妻は涙を浮かべながら黙っていた。娘が、そっと母の袖をつまんだ。


「お父さん……なんか、前より元気そう」


 その声に、妻の表情がふっとゆるんだ。


「あなたらしいわね。何もかも完璧じゃなくていい。私たちも……ずっと帰りたいと思ってたの」


 彼の目に、涙がじんわりとにじんだ。離れていても、女房はずっとそばにいてくれたのだと気づいた。


「ありがとう……」


 妻と娘を抱きしめると、冬の冷たい風が、どこか遠くへ吹き抜けていった。胸ポケットの三百円の宝くじが、かすかに揺れた。それは、“人生はまだ続く”という小さな証しのようだった。


 帰り道。ふと路地裏を覗くと、風鈴の音が一瞬だけ聞こえた。けれど、古本屋の姿はどこにもなかった。


 看板も、灯りも、木の匂いも。すべてが、最初から存在しなかったかのように消えていた。それでも、恒一は不思議と寂しさを感じなかった。


 胸ポケットに眠る、三百円の当たりくじ。それは、すでに換金するための紙切れではなく、“あの日の自分”を忘れないための、小さくて重たい記憶だった。


 後部座席では、妻と娘が寄り添いながら安心したように寝息を立てている。駅前のロータリーを抜ける車内には、柔らかな温もりが流れていた。


 信号待ちの間、恒一はさりげなく空を見上げた。冬の雲の切れ間から、淡い陽が差し込んでいる。


「……俺、金や時間よりも大切な価値を見つけた気がする」


 誰に向けたとも知れない言葉。だが、その瞬間――ちりん。風も吹かないのに、季節外れの鈴の音が再び鳴った。


 妻が目を覚まし、不思議そうにあたりを見回す。娘もつられて微笑んだ。


 恒一は、ハンドルを握り直した。真っ直ぐに前を向き、ゆっくりと人生街道のアクセルを踏む。おんぼろの中古車は、それでも確かに動き出し、彼らを乗せて、未知なる日々へと走り出した。


 我が家がすぐ近くに見えてくる。みすぼらしいアパートでもよい。温もりを感じられるならば……


 彼らの背後で、心地よい音色がもう一度だけ――あたかも三人の新たな門出をそっと祝うように、ちりんちりん、と優しく響いた。


 ──〈 完 〉──



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【路地裏の一夜書房】~あなたの夢を買います~ 神崎 小太郎 @yoshi1449

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