第3話 静かな再生

 大晦日を迎える。近所の寺から年越しを告げる除夜の鐘が届く。なぜか、昨年よりかすかに聞こえる。これも、ひとり身の寂しさゆえなのかもしれない。


 年末ジャンボの当選番号が発表されたことさえ、もうどうでもよかった。


 台所の隅に置き忘れていた一升瓶の日本酒を、冷やのままグラスに注ぐ。グラスの外側に浮かぶ結露が、ふと涙のように見えた。酒も、もう残りわずかだ。


 静まり返った部屋に、時計の針の音だけが響き渡る。悔しさを飲み下すように、冷や酒でひと口、またひと口と喉を潤す。


 この酒が、長年愛用したタバコとの最後の晩になるかもしれない。そう思うと、煙の匂いさえ、どこか懐かしく感じられた。


 知らず知らずのうちに、いつになく一杯の酒で酔いどれ天使となり、恒一はそのまま眠りに落ちていた。夢に現れたのは、またあの古本屋の主だった。今夜ばかりは、恒一の方から、ごく自然に口を開いた。


「俺はやはり道を間違えたのだろうか」

「いや、まだ決めつけるな」


「妻も娘も、俺を置いて逃げていった」

「捨てていったわけではあるまい」


「けれど……」

「命さえ捨てなければ、人生はまだ終わっていない」


 老人の声は、冬の底に灯る囲炉裏火のように清寂で温かかった。


「そう信じてみるよ」

「あのくじだけは、陽だまりに置いておけ」


 ふたりのやり取りが終わると、恒一はさらに深い眠りへと落ちていった。


 翌朝、恒一は、夢の余韻を引きずったまま目を覚ました。胸ポケットの宝くじを取り出し、老人の言葉を思い出す――宝くじ、陽だまりに置いておけ。


 半信半疑のまま、窓辺に宝くじを黄色のハンカチに包んでそっと置いた。冬の陽光が、薄い紙をやわらかに照らす。光の温もりだけが、胸の奥の冷え切った部分に、ほんのわずかに染み込んでいく気がした。


「……これからは、朝ぐらいちゃんと起きてみるか」


 誰に聞かせるでもない声が、部屋に響いていた。それは、久しぶりに彼自身へ向けた、小さな励ましだった。


 *


 正月三が日が過ぎ、町の商店街から『春の海』の音色が消えると、恒一は履歴書を鞄に入れ、外へ出た。冷たい風が頬を刺すが、昨日までのような重さはなかった。


 ハローワークへ向かう途中、国道沿いに初めて見る赤と白の派手な看板が目に入った。中古車販売店の『真実一路モーターズ』。


 新春初売りセールの旗幟がはためき、中古車がずらりと並んでいる。若いスタッフが洗車しながら、寒空に白い息を吐いていた。


「いらっしゃいませ。車、お探しですか?」

「いや……その……仕事を探していてな」


 若者は一瞬驚いたが、すぐに笑顔を取り戻した。


「社長、今ちょうど人手欲しいって言ってましたよ。よかったら、中どうぞ」


 店内は意外にも清潔で、壁には「正直・誠実・一路」の三文字が掲げられていた。若者の言葉が、恒一の胸にじんわりと染みた。


 奥から、がっしりした体格の中年の男が現れた。腕まくりをし、汗と油の匂いをまとった、いかにも“現場の人間”という風貌だ。すぐに面接を受けた。


「おう、いらっしゃい。俺が社長の一路だ。名前の通り、真実一路でやってる」


 恒一は、思わず苦笑した。


「……立派なお名前ですね」


「親父がつけたんだよ。嘘が嫌いな人でな。で、あんたは?」


「幸田といいます。営業を四十年ほど……車の運転も得意です」


 一路社長は腕を組み、じっと恒一を見つめた。その目は、夢に現れた老人ほどではないが、どこか人の内側を見抜くような鋭さがあった。


「年は六十、もうすぐか。けど四十年も営業やってきたんだろ。そりゃあ簡単に身につくもんじゃねえ」

「……はい、ありがとうございます」


「あんたの顔の皺に出てるよ。誠実な笑い方ってやつがさ」

「……隠せない笑顔、ですか?」


「そうそう。笑う門には福来たるって言うだろ。よし、試しに働いてみるか?」


 恒一は、胸の奥が熱くなるのを感じた。誰かに“必要とされる”感覚が、こんなにも温かいものだったとは。


「……お願いします」


 翌日からさっそく仕事を始めた。


 仕事の初日を終えた帰り道、恒一は、またあの夢を思い出した。老人の声が、まだ耳の奥でかすかに響いている。


 ――そなたの宝くじ、陽だまりに置いておけ。


 あの言葉が、どうにも胸に引っかかっていた。もしかすると、老人は“くじ”ではなく、別の何かを言っていたのかもしれない。人は逆境に追い込まれると、心に冷たい隙間風が吹きすさぶものだ。


 気づけば、足は自然とあの路地裏へ向かっていた。古本屋があったはずの場所へ。


 夕暮れの街は仕事帰りの人々で賑わっている。だが、路地に一歩入ると、空気がひんやりと変わった。


「……ここだ」


 とはいえ、そこには古本屋どころか、看板の跡すらない。恒一は、自分の目を疑いながら呆然と立ち尽くした。けれども、このまま立ち去るのは惜しくなった。


「おじさん、どうしたの?」


 隣の衣料品店から、エプロン姿の奥さんが顔を出した。年の頃は五十代半ば、気の強そうな目つきだ。


「あの……ここに古本屋があったと思うんですが」


 奥さんは、あきれたように眉を上げた。


「何言ってんの、ここはずっと駐車場よ。夢でも見てたんじゃないの?」


 彼女の言い方には、軽い揶揄というより、“現実を見なさいよ”という冷ややかさが混じっていた。恒一は、返す言葉を失った。


 すると、奥のほうから店主らしき男性がゆっくりと姿を現した。白髪まじりの髪を後ろで束ね、落ち着いた雰囲気の人だ。


「おい、そんな言い方するもんじゃない」


 奥さんがむっとした顔を向ける。


「だって本当にないのよ、古本屋なんて」

「いや……昔はあったんだよ」


 恒一は、思わず顔を上げた。


「本当に?」

「うむ。もう何十年も前の話だがな。小さな古本屋がここにあった。店主は……そうだ、白いひげを伸ばした老人だった」


 胸の奥が、どくんと脈打った。


「その人は……今は?」


 店主は少し考え、首を横に振った。


「さあな。もうこの世にいないかもしれん。あの店は、ある日突然なくなったんだ。まるで最初から存在しなかったみたいに」


「……店は年老いた人とともに、消えてしまったんですね」

「そうだ。目が澄んでいてな。人の心を見透かすような、不思議な目をしていたよ」


 その言葉は、一夜書房を営む主人の姿と寸分違わなかった。恒一は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。


 けれども、同時に、胸の奥に小さな灯がともる。あの古本屋は、確かに存在した。あの老人は、確かに自分に語りかけた。それだけで、なぜか救われた気がした。


「ありがとうございます。助かりました」


 深く頭を下げると、衣料品店の夫婦は不思議そうに恒一を見送った。路地を抜けると、夜風がやわらかく頬を撫で、心までほぐれるようだった。

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