終章 ──静かに続く世界──
静かに続く世界
炎のような渦が、ゆっくりと、しかし確実に回転している。
レオンは、一歩だけ前に出る。
「火口の中では、
魂が分解される」
低い声だった。
「身体も、意識もだ」
メイが、息を呑む。
「中から書き換えるしか、手がない」
沈黙が落ちた。
「……分解されて意識になるしかない」
理解してしまったからこそ、
メイも、泰朝も、
すぐには言葉を出せなかった。
レオンは、もう振り返らなかった。
ここまで来て、
まだ選べると思っていた自分が、可笑しかった。
足元の岩を、
一瞬だけ、確かめる。
そして、
岩場を勢いよく蹴り、
火口へと、
身を躍らせた。
「レオン――!」
メイが叫び、
反射的に、手を伸ばした。
指先が、空を掻く。
足元が、崩れる。
視界が、
大きく、傾いた。
次の瞬間。
泰朝が、
メイの手首を掴んだ。
思い切り引き寄せる。
メイの身体が、
後ろへと引き戻される。
その代わりに――
泰朝の身体が、
宙に浮いた。
「待機だ!!」
落ちながら、泰朝が叫ぶ。
「そこで、
メイを守れ!!」
その命令に、
影たちが、
戸惑うように、
うごめき――
メイの周囲へと、
散った。
泰朝の身体は、
そのまま、火口へと吸い込まれていった。
◆
それは熱ではない。
圧でもない。
削られる。
身体の輪郭が、
下から、順番にほどけていく。
足が、
重さを失う。
膝が、
存在を忘れる。
痛みはない。
だが、
「自分だったもの」が、
一つずつ、剥がれていく。
視界が、砕けた。
思考が、
粒子になる。
名前が、
意味を失いかける。
――全部、消えてゆく。
そう、思った瞬間。
「レオン!!!!」
声が、
落ちてきた。
遠い。
だが、
確かに、自分を呼んでいる。
メイだ。
その声に、
意識が、引き戻される。
ばらばらになりかけた思考が、
かろうじて、形を取り戻す。
――まだだ。
――消えるには、まだ早い。
レオンは、
“意識だけ”で、
炉の内側を見る。
そこには、
構造があった。
流れ。
分岐。
選別。
魂を引き抜き、
用途別に振り分ける――
エデン社のフィルター。
レオンは、
それに触れる。
触れた瞬間、
理解しきれない量の“構造”が流れ込む。
楽園。
再配置。
最適化。
資源。
――神の手。
そのとき、
再び、
視線のようなものを感じた。
こちらを、
測るような気配。
だが――
もう、関係ない。
レオンは、
システムに、
手を伸ばす。
魂を選別し、
引き抜いていたそれを、
“正しい循環”の位置から、
静かに、外した。
そして、
本来あるべき流れへと、
書き換えていく。
秒なのか。
永遠なのか。
時間は、
もう意味を持たなかった。
最後に、
レオンは、
外してあった
魂を選別していた
フィルターを、
掴み取る。
そして――
エデンの表層へと、
それを投げ込んだ。
最後に、
扉へと手をかけ、
静かに、閉める。
その瞬間――
視界の端で、
自分の虹彩に浮かんでいた
数字が、
ひとつ、
またひとつ、
砕けるように、
静かに、消えていった。
◆
分解は、容赦なかった。
泰朝にかけられた願掛けが、
最後の抵抗のように、軋む。
だが――
次第に、その音も、ほどけていく。
四肢が、
順番に、形を失っていく。
なすすべはない。
「……俺は……
ここで、消えるのか」
押さえつけられる感覚。
白刃が、
視界の奥で、きらめいた。
かつて、
自分に振り下ろされた刃の残像。
――俺は……
泰朝は、
ぎゅっと、目を閉じた。
――やがて。
背中に、
硬い感触。
痛みはない。
ゆっくりと、
泰朝は目を開けた。
そこは、
黄泉比良坂の火口の底だった。
巨大な穴の底。
先ほどまで渦巻いていた炎は消え、
遥か頭上に、
黄泉の、不思議な色をした空が、
静かに広がっている。
レオンと泰朝は、
並んで、仰向けに転がっていた。
レオンが、
顔だけをわずかに向ける。
「泰朝。
無事か?」
「……思い、だした」
泰朝は、
ゆっくりと息を吐くように言った。
レオンが、
半身を起こす。
泰朝は、
冥府の空を見つめたまま、続けた。
「俺は、あの時……
ただ、願ったのだ」
「駿府へ……
ただ、家族のもとへ、
帰りたい、と」
その言葉が終わる頃。
風が、吹き始めた。
黄泉比良坂の炉が、
再び、動き出そうとしている。
火口の底。
壁面の一角に、
非常用の扉が、
淡く浮かび上がっていた。
レオンと泰朝は、
顔を見合わせることもなく、
立ち上がり、
その扉へと急ぐ。
――だが。
扉の前で、
泰朝は、ふと足を止めた。
懐から、
小さな箱を取り出す。
指先で、
そっと、蓋を開ける。
次の瞬間。
魂が――
煙のように、
溢れ出した。
だが、
次第に強くなる風が、
それらを巻き上げる。
オレンジ色の光をまとい、
きらきらときらめいて――
消えていく。
泰朝は、
しばし黙って、
それを見送った。
それから、
二人で、
扉を閉めた。
◆
火口の縁。
メイは、
死霊の軍に囲まれながら、
眼下を覗き込んでいた。
風が、止む。
しばらく、
何も起こらない。
胸の奥が、ざわつく。
――二人とも、無事でいて。
そう願いかけた、その時。
再び、風が吹き始める。
同時に、
きらきらときらめく
魂の残滓が見えた。
それは、
不思議な光景だった。
メイは、思わず、魅入る。
そして、
小さく呟いた。
「来世へ……
どうか、
無事に魂が巡りますように……」
▼ △ ▼
レオンが引き剥がし、投げ返した「選別の理」は、
エデンの表層へと、逆流するように叩きつけられていた。
誰の目にも、
否応なく触れてしまう形で。
白日の下に晒されたのは、
魂を削り、選り分けてきた
あの歪んだ“神の仕組み”そのものだった。
一時、エデンの社内は騒然となった。
警告。
遮断。
削除命令。
外部へ流出するより前に、
情報は即座にもみ消された。
だが、
完全に隠し切ることはできなかった。
内部調査が走り、
やがて――
ひとつの名前が浮かび上がる。
ヘルマン。
魂選別フィルターの計画。
運用判断。
責任所在。
すべてが、
彼の差配の内にあった。
世界的規模の企業としての判断は、
驚くほど早かった。
役員交代のための、
臨時役員総会が、
欧州本部で招集されることとなる。
会議室前。
白い壁には朝の光が差し込み、
静かな空気が満ちている。
エデン社の役員総会が始まる前。
広いホールで、
二人はすれ違った。
「……ルーチェス」
低く、
押し殺した声で、
ヘルマンが呟く。
ルーチェスは、
一瞬だけ足を止め、
ヘルマンを見た。
そして、
ふいと視線を逸らす。
そこにあったのは、
敵意でも、
勝ち誇りでもなく――
ただの、
興味のなさだった。
歩きながら、
短く告げる。
「引き継ぎは、私が」
そのまま、
ヘルマンから離れると、
ルーチェスは、
ゆっくりと振り返った。
背後に同行していた
レオンへと、
向き直る。
慈愛に満ちた笑みをたたえたまま、
ルーチェスは静かに言った。
「本当に……
君の働きは素晴らしかったよ」
その微笑みは、
慈愛に満ちているはずなのに、
どこにも揺らぎがなかった。
まるで、
最初からそうなるように
用意されていた表情のようだった。
「君のおかげで、
世界は正された。」
「やはり、
私の目に狂いはなかった」
わずかに間を置き――
「これからも、
君の働きを、
楽しみにしているよ……Re:on」
その発音が、
胸の奥を、
鋭く刺した。
Re:on――?
俺の、
ハッカーネーム……?
どうして、
知って……?
息が止まる。
レオンは、
反射的に顔を上げた。
だが、
ルーチェスはいつも通りの、
穏やかで優しい微笑みを
浮かべている。
「君のそういうところが、
特に……美しい」
静かに、そう言い残す。
首元のロザリオが、
冷たい銀の光を返した。
ルーチェスは、
会場へ向かって、
ゆるやかに歩き出す。
扉が開き、
拍手とざわめきが漏れ聞こえる。
「新役員の選任に入ります!」
係の声。
会議室の奥から、複数のシルエットが立ち上がる。
そして——扉が静かに閉まる。
レオンはそこに取り残されたまま、
自分の鼓動が痛いほど強く脈打つのを感じていた。
▼ △ ▼
中部国際空港、セントレア。
ガラス越しに、
海が広がっている。
メイは、
ぴよ丸をバッグから覗かせたまま、
到着ロビーに立っていた。
「メイよ。
昼は、味噌煮込みがよい」
その声に、
メイはあきれたように言う。
「ねえ。
どうして願いを思い出したのに、
成仏してないのよ?」
ぴよ丸は、
当然のことのように答えた。
「我は、
駿府に帰りたいのであって、
黄泉に還りたいわけではないのだ」
メイは、
小さく溜息をつく。
「ああ……
なるほどね」
そのとき。
向こうから、
人の流れを縫うように、
レオンが歩いてくるのが見えた。
ふと視線が合い、
メイを見つけた瞬間、
嬉しそうに笑う。
二人は、
自然に肩を並べた。
メイが、
何気ない調子で聞いた。
「……役員会、
問題なく終わった?」
レオンは、
少しだけ考えた。
それから、
小さく息を吐いて、
口を開く。
「俺は、
死後も働かされているけどさ」
その言葉に、
メイは、
一瞬だけレオンを見上げた。
胸の奥が、
わずかに揺れる。
――もう、
聞いている。
レオンの過去も、
失われていた時間も。
メイは、
何も言わずに、
小さくうなずいた。
レオンは、
少しだけ、
照れたように続けた。
「でも今は――
自分の足で、
世界のどこへでも行ける」
メイは、
それを聞いて、
小さく笑った。
「じゃあさ。
お昼、行こ」
「我は、味噌煮込みうどんがよい」
「はいはい」
二人は、
並んで歩いていく。
ガラス越しに、
滑走路が広がっていた。
ゆっくりと、
一機の飛行機が動き出す。
加速し、
地面を離れ、
空へと浮かび上がっていく。
レオンは、
その軌跡を、
ただ見送った。
――どこへでも、
行ける。
そういう世界だった。
ガラス越しに差し込む陽光が、
床に、影を落とす。
メイの影は、
はっきりと、
彼女の足元に伸びていた。
その隣。
レオンの足元には――
影が、
わずかに、
遅れて落ちていた。
メイは、
何も言わず、
その隣を歩いている。
世界は、今日も
静かに続いていた。
黄泉送りOLは今夜も定時で帰れない ──冥府省・名古屋支部・送魂記録── 神代ゆうき @pupukushi0423
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