第37話 白の令嬢が拾った戦後の亡霊

 境界線都市メル・シェードの市街へ、蒸気車は速度を落としながら入っていった。


 石畳の上を刻む車輪の音に、屋台の呼び声や人々の足音が重なり、街は穏やかな生活音に満ちている。


 石畳の一部は、まだ修復の途中だった。

 欠けた路面を避けるように、人々は自然と歩幅を調整している。

 露店に立つ老人の片腕は義手で、金属の継ぎ目が陽に鈍く光っていた。


 それでも今この瞬間、街を支配しているのは銃声ではなく、日常だった。

 壊れたものを抱えたまま、生活は前へ進んでいる。


 カレンは窓越しに、行き交う人々を眺めていた。

 武器を持たない手、警戒よりも生活を優先した視線。

 その一つ一つが、かつての戦場とはあまりにも異なっている。


 自分がここに立っていることに、まだわずかな違和感はあった。

 だが同時に、その違和感と釣り合うだけの安堵が、確かに胸の奥に存在していた。


 蒸気車を降り、二人が足を止めた先には、小さな店があった。

 掲げられた看板に記された名を見て、クラリスは迷いなく扉に手をかける。


 ミレイユ・ヴァルター。


 扉が開いた瞬間、店内の空気が一拍だけ止まり、次の瞬間、ミレイユの表情が驚きに染まった。


「……生きてたのね」


 震えた声は、それ以上の言葉を必要としなかった。

 理由も経緯も、今は問うべきではないと、彼女自身が理解している。


「ええ」


 クラリスは静かに頷き、穏やかに言葉を添える。


「少しの間、お邪魔してもよろしいかしら」


「当たり前でしょう」


 ミレイユは即座にそう答え、二人を店の奥へと導いた。


 少し遅れて姿を現したバルトは、二人を見て一瞬だけ言葉を失い、それから低く、しかし確かな声音で告げる。


「……お嬢様。ご無事で」


 その一言で十分だった。

 無事を確認し、彼は小さく息を吐いた。


「そこ、置いてもらえる?」


 ミレイユはそう言って、何気なくカレンを見た。


「ありがとう、カレン」


 その呼び方に、特別な意味はなかった。

 ただ、そこにいる人間として呼ばれただけ。



 滞在は、長くはなかった。


 仕事を手伝うわけでもなく、客としてもてなされるわけでもない。

 ただ、そこにいる時間が与えられた。


 夕食のあと、カレンは手際よく皿を片づけた。

 アストレア家のメイドして培った習慣、自然な動きだった。


 その後、紅茶を淹れる。

 湯の温度、茶葉の量、蒸らす時間――慎重で、無駄のない所作。


 クラリスが一口飲み、ふっと表情を和らげる。


「やはり、あなたの紅茶が……一番落ち着きますわ」


 途中で言葉を詰まら、語尾が震えた。


 カレンは答えなかった。

 ただ、視線をわずかに伏せ、その言葉の先にあるものを胸の奥に受け止める。


 ミレイユは何も言わず、その様子を見守っていた。


 

 数日後、二人は市街のカフェに腰を下ろしていた。


 窓際の席からは、人の流れがゆったりと見渡せる。

 慌ただしさはなく、それぞれが自分の生活を生きている様子が、通りを満たしていた。


「最近」


 クラリスが、ふと切り出す。


「あなた、前よりも会話が増えましたわね」


 カレンは一瞬だけ瞬きをし、考えるように視線を落とす。


「……そう、でしょうか」


「ええ」


 クラリスは穏やかに続ける。


「表情も、ずいぶん柔らかくなりました」


 それは指摘ではなく、気づきを伝える声だった。


 カレンは否定しなかった。

 理由を言葉にすることはできなかったが、胸の奥に温かさがあることだけは、確かだった。


 クラリスは、カレンの顔を見つめたまま、静かに続けた。


「わたくしも……以前なら、気づけなかったことですわ」


 それは反省ではなく、変わったのは、カレンだけではないという、穏やかな自覚だった。



 二日が過ぎた。


 何も起きない時間が、淡々と流れていく。

 追われることもなく、呼び出されることもない。


 朝の光が蒸気車の金属を照らし、点検の音が静かに響く。

 

 出発の朝、ミレイユは店の前に立ち、二人を見送った。


「また寄りなさい」


 それは別れの言葉ではない。

 戻れる場所がある、という事実を示す言葉。


 ミレイユは、クラリスを優しく抱きしめた。

 カレンは黙って頭を下げる。


「しんみりするんじゃねぇよ! いつだってここには来られるんだからよ」


 その場違いな声に、空気が一瞬だけ止まる。


 「……ヘルマン」


 バルトだった。

 声を荒げることも、感情を乗せることもない。


「場をわきまえろ」


 事実を述べただけの言い方だった。


「え? いや、だからさ――」


 ヘルマンの言葉をバルトが遮る。


「今は、お嬢様とミレイユさんの気持ちを考えろ」


 一瞬の沈黙。


 ヘルマンは口を開きかけて、やめた。

 そして、苦笑いに近い表情で頭をかく。


「……真面目だな、お前」


「今に始まったことじゃない」


 ミレイユは、二人のやり取りを見て、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。

 クラリスは視線を伏せ、小さく息を整える。


 カレンは――

 誰にも気づかれないほど、わずかに表情を和らげていた。



 蒸気車の前で、ヘルマンが運転席に腰を下ろす。


「さて、と」


 いつもと変わらない軽い声。


 蒸気車の座席に、折り畳まれた古い地図が広げられていた。

 端は擦り切れ、文字もところどころ薄れている。


 指でなぞることはしない。

 ただ、視線がゆっくりと流れていく。


 クラリスは一度だけ空を見上げ、それから言う。


「……西に向かってみましょう」


 提案であり、決定ではない。


 カレンは一拍置き、同じ空を見る。


「……承知しました」


 短い肯定だったが、それで十分だった。


 蒸気車のエンジンが、低く唸りを上げた。


 金属が擦れる音。

 圧の抜ける乾いた息。

 やがて、規則正しい鼓動のような振動が車体に伝わってくる。


 ヘルマンが操縦桿を引くと、車輪が軋み、地面を噛むようにして、蒸気車がゆっくりと前へ動き出した。

 砂利を巻き上げ、乾いた砂埃が、朝の光の中でふわりと舞う。


 この先にあるのは逃亡ではなく、戦争への回帰でもない。

 行き先を選べるようになった者たちが、ただ前へ進み始めただけ。


 蒸気車は速度を上げ、メル・シェードの街並みが、少しずつ後方へ流れていく。

 

 行き先は、まだ決まっていない。



 やがて、エンジン音だけが残り、その響きも、距離とともに薄れていった。



(了)




 ~あとがき~

 

 ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。


『白の令嬢が拾った戦後の亡霊』は、

 戦争が終わったあとに残されるもの――

 責任、沈黙、記憶、そして選択について描いた物語でした。


 この物語には、世界を劇的に救う英雄も、すべてを裁く正義も、明確な勝利もありません。


 あるのは、戦う力を持ちながら戦わないことを選んだ存在と、語ることでしか抗えなかった存在、そして「それでも生きていく」と決めた人々だけです。


 カレンは、その記憶の初めから“人であること”を許されていませんでした。

 兵器として作られ、命令に従い、戦果を上げることだけを求められてきた存在です。


 感情を切り捨てること。

 痛みを問題にしないこと。

 生き残る理由を考えないこと。


 それが、彼女に課された生き方でした。


 けれどこの物語の中で、カレンは少しずつ「戦闘以外の時間」を与えられていきます。


 紅茶を淹れること。

 文字を学びたいと口にすること。

 誰かの言葉に、思わず笑ってしまうこと。


 それらは大きな変化ではありません。

 戦況を左右することも、世界を揺るがすこともない。


 これまでの「兵器には必要のない行為」ばかりでした。


 クラリスが戦うことを選ばなかったのは、カレンが強く最凶だからではありません。

 これ以上、彼女を“戦争の証明”にしたくなかったからです。


 そしてカレン自身もまた、戦いの中にいた自分を否定するのではなく、戦わない自分を選び取っていきました。


 最後に彼女が取り戻したのは、過去でも、失われた記憶でもなく、「選んでいい」という感覚だったのだと思います。


 クラリスは象徴になる道を捨て、カレンは兵器として完成していながら、戦いから降りました。


 それは遠回りで、非効率で、もしかしたら報われない選択かもしれません。


 けれど、だからこそ、この物語は「戦後」を生きる話になったのだと思っています。


 メル・シェードを走り出した蒸気車の先に、明確な目的地はありません。


 それでも彼女たちは、もう命令ではなく、もう役割でもなく、「どう生きるか」を考えながら進める場所に辿り着きました。


 この物語は、世界が変わる瞬間ではなく、変わり始めたあとの静かな時間で終わります。


 戦争が終わっても、正義が機能しなくても、それでも人は――人として、生き方を選べる。

 そのことを、最後に残したかったのです。


 カレンが笑った、あの一瞬が、

 その証明であればいいと願っています。


 ―――――――


 お礼


 感想、いいね、フォロー、そして読み続けてくださったすべての方へ心から感謝します。


 派手さのない、重く、静かな物語でしたが、最後まで見届けていただけたことが、何よりの励みでした。


 この物語が、誰かにとって「戦わない選択」を考えるきっかけになったなら。

 あるいは、語ること、離れること、守ること、そして“人として生き直すこと”の意味を少しでも考える余白になれたなら、それ以上の喜びはありません。


 また、どこかの物語でお会いできましたら幸いです。

 本当に、ありがとうございました。



 三毛猫丸たま

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