銀食器とお茶会(3)

 毒の魔法使い、なんて。

 目の前の小さな魔法使いの姿を頭からつま先まで観察していると、マユルは照れたようにくふふと笑った。


「ね、僕はすごいんだ。御主人様、坊ちゃん、マユル様、好きなように呼んでね。それで、こっちが使い魔であり毒蛇のエミ。今はメイドの仕事もしてくれてるよ」

「名城エミでございます。……マユル様のため、君の存在もひとまず受け入れよう。後輩としてビシビシ鍛えるので心するように。俺のことは先輩と呼ぶがいい」


 最初は拒否気味だったエミまで、私を後輩として受け入れる気だ。かすかに笑う口元から、蛇の牙のような鋭い歯がちらりと見えた。

 魔法使いなんて、意味不明にも程がある。

 こちらの返事をじっと待つ二人を前にして、私はようやく口を開いた。


「……そう、なんですか」


 正しい反応の仕方がわからない。

 普通、人はここで笑うのか、怒るのか、怯えるのか。

 返事を間違えたら、私は魔法使いの鍋でぐつぐつ煮られるのだろうか。

 反応の薄い私に、マユルがしきりに首をひねっている。


「どうしたの? もっと飛び跳ねて喜んでもいいんだよ? ……あ、もしかして!」


 毒の魔法使いの腕が無遠慮に伸びてきて、私は無意識にびくりと身体を固まった。

 小さな手は膝にある私の手を取って、やっぱりとつぶやく。


「顔に触れた時も思ってたけど、手も冷たい。生き物は、寒いと感情表現も鈍くなってしまうからね。じゃあ、お茶を飲むといいんじゃないかな」

「いえ、私が冷たいのは元からですし、飲み物も別に……」

「さあ、飲んで。エミの紅茶は美味しいよ」


 銀のカップを手に握らされる。

 真っ直ぐに見つめてくるピーコック・グリーンの瞳は、飲まなければ納得してくれないだろう。

 でも、"毒"の魔法使いを名乗っている人物から渡されたものを飲んでいいのだろうか。


「何だ。俺は毒蛇だからといって毒を入れたりしていないぞ」


 私の不安をエミがばっさり切ってくる。

 鋭い目がいいから飲めと訴えてきている。

 もう飲むしかない。それに、さっきマユルも目の前で飲んでいたのだし。


「失礼しました。じゃあ……」


 口をつける前に、カップを傾けてもう一度中をあらためてみた。

 たしか毒は銀に反応するのだというのを、ネットのどこかで見た気がする。かつての貴族は、毒を恐れて銀食器を使っていたのだとか。

 銀のカップは曇り一つなく、丁寧に磨かれて、壁の灯りを受けてぼうっと光っていた。どこも変なところはないように見える。


「いただきます」


 ぐいっと一息に紅茶を流し込んだ。

 味も熱さもわからないまま、ごくりと喉奥に飲み込んでしまう。

 ……身体に、異変はないみたい。


「実は銀食器は毒に反応しないんだよ。現代においてはね」


 楽しげに語られた言葉に、思わず喉から変な音が鳴った。

 思わず手からこぼれ落ちたカップが、床に落ちる寸前でマユルが受け止められた。そして、そのカップは無造作に持ち上げられる。


「かつての毒は精錬不足で不純物が混じっていたんだ。その不純物、主には硫黄に反応して銀は変色していた。けれど、時代とともに洗練された毒にもう銀は効かない」


 銀のカップを逆さまにして、落ちた最後の一滴をマユルは味わうように嚥下えんげする。


「――それって、とても素敵だよね」


 無垢だった瞳が、蠱惑的こわくてきに細まった。

 目の前の美しい少年は人間ではない。

 それをはっきり思い知らされた。


「……なぁんて。ここに君を害する毒は入ってないよ。ごめんね、驚かせちゃった」


 ころりと表情を変えて、マユルは悪戯っぽく舌をぺろっと出した。何も知らなければ、かわいいと思ったかもしれない。

 私はぎこちなく口を動かした。


「私を害する毒は……ということは、害さない毒は入っていたんですか?」

「あ、いいところに気づいたね! イッコちゃんはやっぱりいい子だね!」


 無邪気に手を叩いて褒められる。

 けれど、さっきと違って私の胸の奥が動かされることはない。

 私の冷たい反応を見たマユルは、悲しそうに肩を落とした。


「そんなに怖かった? ああ、毒ってそういえば恐れられるものだったかな。すっかり忘れてたよ」

「後輩はマユル様から福音を受けるだけの度量がまだ足りないのでしょう……俺と違って」

「そっか。一から教えてあげなきゃね」


 主人を慰めるエミに対して、納得したようにマユルも頷く。主従で勝手にわかったように話を進めていく。私はひとり置いていかれる。

 空になったカップをメイドの手に預けて、マユルが人差し指をぴんと立てた。


「毒は身近なものなんだよ。例えば、さっきのカップの紅茶」

「やっぱり、毒が入っていたんですか?」

「ある意味ではね……イッコちゃんは、水中毒みずちゅうどくって知ってる?」


 突然の質問に私は首を横に振った。

 毒のことなんて、普通の人間であれば知る機会はないだろう。

 そっかと頷いたマユルは、まるで自慢のおもちゃを自慢するような口ぶりで説明し始める。


水中毒みずちゅうどくというのは、水が人体の毒になった状態のことだよ。そういう意味で、紅茶も沸かした水で淹れている訳だから毒ってことだよね」

「それはおかしくありませんか? だって、水なんて人間は四六時中飲んでいますし、人の身体の半分は水分だって聞きます」

「なんにもおかしい事はないよ。お薬と一緒。用法用量を間違えれば、水も毒になる」


 曰く、短期間に多量に水分を摂取した場合、人間の血液の塩分濃度が一気に低下して、最悪は死に至るらしい。

 日常生活で起こるのはまれだけどねとマユルは付け足す。


「それだけ毒は身近に息づいている――この世の全てに毒があるんだよ」

「この世の全てに……?」

「そう、世界は毒で満ちているんだ!」


 両手を広げて天井仰いだマユルは、楽しそうにその場でくるくると踊り回った。テーブルにぶつからないように、エミがさりげなく片手を握って支えている。

 そのままソファにぽすんと倒れ込んだかと思うと、マユルの瞳がひたりと私を見つめた。


「じゃあ、この世で一番人間をむしばむ毒は何だと思う?」

「わかりません……毒キノコですか? もしくは毒蛇、とか?」


 毒蛇という言葉に反応して、エミの鋭い目がこちらを向いた。怒るかと思ったら、誇らしげに胸を反らされた。うれしいのかもしれない。

 けれど、マユルは両方の人差し指を交差させてバツをつくった。


「ぶっぶー。残念、違うよ」

「じゃあ、蜂ですか?」

「それもバッテン。……んふふ、じゃあ答えを教えてあげる」


 小さな魔法使いは魅惑的な笑みを浮かべて、自分の胸に手を当てた。

 人間で言えば、心臓に当たる部分。

 魔法使いに心臓はあるのかと不思議に思う。


「それはね、感情だよ。人間は常に感情という毒におかされる――寂しくても、悲しくても、つらくても、怒っても……そして幸せを感じても、その感情の毒で死ぬんだ」

「感情……」


 どうしてだろう。感情が毒というのは、水よりも納得できてしまう。

 インターネットを覗けば、自ら死を選ぼうとする者の叫びがあふれている。もしくは攻撃的な感情をもって相手に毒をろうとする人もいる。

 生物を死に至らしめるものを毒と定義するなら、感情こそが一番の毒なのかもしれない。

 でも、マユルの言葉に一つ違和感があった。


「幸せも毒になるんですか? 幸せを感じて、死を選ぶ人はいないと思います」

「そうかな。ファウストだって叫んでる――時よ止まれ、汝は美しいって。幸福が死という結末を選ばせることもあるんだ」

「ファウストって、それは物語の話でしょう?」


 ファウストは、作家ゲーテの書いた小説の主人公だったはず。悪魔と契約をして、この世の知恵と快楽を手に入れた男だ。

 まるで誘惑する悪魔のように、ピーコック・グリーンの瞳が笑みを形づくる。


「およそ人の願望は創作物にこそ現れる。動物から分かたれたと思い込む人間は、本能をそのまま吐き出すことを下品と嫌がるからね」

「人は嘘をついてるということですか?」

「嘘というより、感情を口に出さないと言うべきかな。嫌いな相手に嫌いと言える人間はそういない。そうやって、感情の毒を人は心のうちに溜めていくんだ……最近はネット上に毒を吐く人もいるみたいだけどね」


 ネット上であれば、匿名で言葉を吐き出すことができる。下品だとかそんなことも考えずに、毒を吐き出すことができる。

 ――けれど、感情は電子の海を漂って、毒はさらに伝播する。

 マユルのささやき声とともに、暖炉のまきがぱちんと爆ぜた。


「だから、僕がこのお店で人の毒を取り出してあげるんだよ」


 炎が揺れるとともに形を変えた。

 ゆらりと揺れる黒い影が広がって、こちらに手を伸ばしているようにも見えた。

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幻想喫茶「ロバの耳」の秘密事 運転手 @untenshu

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