夏休みも、のこり一日。
2冊の日記を持つと、黒鉛の重みを感じる。
読み返すだけで、頬が緩む。
宿題が終わってから、監禁生活はエスカレートしていた。
縄で四肢を縛って、口枷をはめたり。箱に押し込まれた時もあったなぁ。目を布で覆い、首輪をつけた日は、背筋のゾクゾクが止まらなかった。
もっとも印象に残ったのは、一日限定の、立場逆転。
ナギサちゃんが拘束されて、私がお世話する。
料理も下手だし、掃除もできない。ご飯を食べさせるのも、一苦労。
なにより興奮した要素は、あの子の名演技だ。
たすけて。おうちに帰りたい。痛いことしないで。
普段のしとやかな態度が消えて、年相応の少女になり切っていた。首を絞めたり、指を噛んだり、スケッチをしたり。徐々に素が出る姿も、かわいかった。
「たくさん、思い出を作りましたね」
「うん。ナギサちゃんの文字も、うれしそう」
「……言わないでください」
無言で、浸る。
1か月の夏休みも、終わり。
「恵巳さん。最後に……」
「……うん」
目だけで、理解する。
彼女が求めているもの。
夏の思い出を、体に刻み込みたい。
「本当にいいん、だよね?」
「普段の恵巳さんって、優しいですよね」
「……普段って、なに」
「どちらのあなたも、魅力的ですよ」
|芍薬《しゃくやく》も恥じらうような指先が、テーブルに伸びる。
握ったのは、無骨なカッター。
「まずは、あたしがやりますね」
「……うん。お願い」
採血のように、左腕を差し出す。
リスカ跡に、吐息がかかった。
「……あたしが、塗りつぶします」
「うん。お願い」
じっとカッターの先を、みつめる。
徐々に、皮膚との距離が縮まっていく。
「いきますよ」
「……うん」
刃が入った瞬間、全身が、反応した。
オフィスでリスカした時とは、違う。
痛い。
鋭い痛覚が、神経を支配する。
人間の体躯よりもずっと小さい、カッター。
薄い刃が皮膚を切り裂き、肉の中に入り込む。
些事に思えるのに、口が、絶叫を発した。
血管が、赤い液体を放出する。
体が暴れ、拒絶反応を示す。
「もう少し我慢できますか?」
「むり、むりむりむりっ!!!」
左手を引っ張っても、動かない。全身で押さえつけられている。
「まだ塗りつぶせていませんから」
「だって……っ!」
「大丈夫ですよ。今の恵巳さん、とってもかわいいですから」
一言で、鋭利だった痛みが、変わる。
丸くて甘い刺激が混じりはじめた。
カッターは冷たくて無機質。だけど、奥には、ナギサちゃんがいる。
痛いのに、嬉しい。こそばゆい。脳が、蒸発していく。
「……おわり、です」
息を整えて、血まみれの手をみつめる。
しびれていて、指はほぼ動かない。
包帯を巻いても、新鮮な赤色が滲む。
鼻をかむと、空気は鉄臭さで淀んでいた。
「大丈夫ですか?」
「……ありがとう」
私は、自分の体すべてが嫌い。だけど、この傷だけは愛おしくて、ルビーのように撫でたくなる。
今度は、ナギサちゃんの番だ。
「よろしくお願いします」
白く滑らかな肌。
触れるだけで、鼻から息が漏れる。
緑色の痣に触れると、白魚のような指先が跳ねた。
血のついたカッターを、握る。彼女の手首に近づけるたび、心臓が脈打つ。
「肌、キレイだよね」
「好きですよね。あたしの肌」
「うん」
まるで、芸術品。
私が触れているだけで、奇跡だ。
でも、私は今から、切り裂く。刻み込む。
ああ……。
なんて、胸が|空《す》く想い。
「いくよ」
指に、力をこめる。
「……っ」
暴れていた私とは、違う。全身を強張らせて、耐えている。
眉間が波打ち、歯を食いしばり、腕にしがみつく。
吐息が熱く、湿った。
必死にこらえる、少女の姿。
刃先を動かすだけで、全身を震わせる。
くぐもった声を、漏らす。
ああ。
なんて、かわいい。
「……ナギサちゃん」
もっと、見たい。
我慢なんて、邪魔。
奥底からの声を、引き出そう。
私にだけ見せる、私だけが聞ける、私だけの、ナギサちゃん。
「あ……ぁ……」
もっと。
「め、ぐみ……」
まだ、もっと。
「いや……もう……っ!」
もっと。もっともっともっともっともっと。
「——————」
雛鳥の断末魔みたいな、叫びだった。
血だらけの床を見て、カッターを投げ捨てる。我に返った。
「ご、ごめん」
細い肩が、激しく上下している。
息を整えるまで、背中をさすった。
「……恵巳さん、ひどすぎ……です」
「やりすぎたよね」
「いえ。あー……でも……」
「なに?」
「えっと、驚かないでくださいね?」
にへらと、素朴な笑顔。
まるで、サナギから出られない蝶のように、危うくて、愛おしい。
「ちょっと、物足りないかもしれません」
気付いた時には、抱きしめていた。
「……ナギサちゃん、変態じゃん」
「ふふふ。誰のせいでしょうか」
「ナギサちゃんのせい」
「そうですね。あたしのせいにして、えらいですよ」
ああ。
やっぱり、私には、この子しかいない
「一緒に死のう、ね」
「はい。一緒に……」
手首の、刻印。
一緒に死ぬ、誓いの証。
左手首をさするだけで、外も怖くない。
夜に咲いた、9本の青薔薇。血液不足の影響で、小ぶりだった。
ザクロのように甘酸っぱい生活も終わり、社会へと、私たちは戻る。