廃病院は、森の奥に|佇《たたず》んでいた。
壁にはコケが生え、動物が出入りしている。
大きさは個人の診療所ぐらい。
自然に溶け込んだ、雰囲気だ。
「一体、何年前に建てられたのでしょうか」
ナギサちゃんの目は、瞬きを忘れている。
廃病院に近づき、私の指がコンクリートの壁を撫でた。
表面が崩れ落ち、土くれへと変わった。
「想像もつかない。多分、私が生まれるよりも前だ」
中に入るのも、怖い。
二の足を踏んでいると、ナギサちゃんが侵入した。
「ちょっと! 危なくない!?」
「恵巳さんも早く入ってください」
「崩れるかもよ!?」
「早くしないと、あたしひとりで死んじゃいますよ?」
「…………わかったよ」
足を踏み入れるだけで、建物全体が、揺れた。
髪の毛に落ちる、粉塵の感触。
壊れかけの吊り橋が脳裏に浮かび、唇が乾いた。
「なんで、取り壊されずに残っているのでしょうか」
「誰も困らないからじゃない?」
「……かわいそうです」
「そうだね。ずっとひとりかぁ」
「えっと……そうじゃなくて、ですね」
振り向くと、目に入った。
壁のヒビを愛おしそうに撫でる、ナギサちゃんの姿。
「ただ、生かされているだけなのが、悲しいです」
「生かされてる……」
「建物って、壊れ方も自分で選べないんですよね……」
「……そうだね」
振り向いたナギサちゃんと、視線が合う。
引き締まった顔を目撃し、私の口が閉じる。
「恵巳さん、この病院を壊してくれませんか?」
「え、私が……?」
「すみません。あたしには、もう体力もないので」
お嬢様は、億劫そうに息を吐き、座り込んだ。
口の端を、自虐的に歪めながら。
「でも、どうやって壊そう」
「素手はどうですか?」
自然と、自分の手に視線が移る。
「流石に無理かなぁ。ゲームじゃないし。道具が欲しい」
「……残念です」
「いや、何を期待してたの」
「血だらけで殴り続ける恵巳さん、きっとかっこいいなって」
「……いや、怖いよ?」
呆れて肩をすくめると、ナギサちゃんの目元が微笑んだ。
「まあ、やるかぁ。あんまり時間かけられないけど」
「あたしは見ていますね」
「見張り役?」
「いえ、ただの特等席です」
生暖かい視線が、むずがゆい。
「やれるだけはやろう」
まずは、材料を探す。
森から採取したパーツは、太い枝とツタ、大きめの石。
組み合わせて、簡易的な槌を完成させた。
早速、振りかぶる。
あっさりと、石がすっぽ抜けた。
「ありゃ」
何度作り直しても、完璧な固定ができない。
諦めて、縄の先端に石を括り付けた。
助走で振り回し、壁にぶつける。
「おお」
一発で穴が、開いた。
気が乗って、何度も叩きつけていく。
頭一個分の大きさになると、息が上がった。
「恵巳さん、そろそろ夜ですよ」
「え、そんな時間?」
周囲を見回すと、夕焼けに染まっていた。
廃病院で寝泊りし、次の日も打ち壊す。
昼過ぎ。
ついに、崩れ落ちた。
間一髪で逃げ出し、巻き込まれずに済んだ。
「お疲れ様です」
「どう? これで満足?」
「はい」
手を合わせて、目をつむるナギサちゃん。
見習って、私も祈った。
「夢中になったの、久しぶりかも」
「ふふふ。よかったです」
「ごめんね。一日もかかっちゃった。貴重な時間なのに」
「いえいえ。恵巳さんの頑張ってる姿を見れて、眼福でした」
「私、そんなに頑張ったこと、ないんだけど」
「恵巳さん、それは謙遜しすぎです」
たしなめられて、目を反らす。
「受験も、文化祭の舞台も、生前葬の時も、ずっと頑張ってたじゃないですか」
「……頑張りに入る? ただ流されて、あがいていただけだよ?」
「十分、努力してましたよ。あたしが保証します」
無理やり、視線を合わせられる。
お嬢様の瞳は、ダイヤモンドのようだった。
まっすぐに、揺らぎない。
「……うん。ありがとう」
下を向き、足元の石を小突く。
照れ隠しだ。
「自信つきましたか?」
「悪くないかも」
自分の手をさすって、気づく。
薬指の付け根に、できものが生えていた。