目を開けると、天井が近かった。
背中の感触は、ベッドより硬い。
体を起こそうとして、重みを感じる。
首を曲げると、見える。
氷枕のような、ナギサちゃんの体。
静かな寝息を立てながら、私の腕を掴んでいた。
「……朝、か」
狭い中で、身じろぎをする。
窓越の空は、澄んだ蒼色だ。
「……逃避行」
今は、軽ワゴン車の中。
生前葬は、ネットで中継されていた。歯がゆいことに、私は有名人になった。
100万円。鳥海恵巳に対する、賞金。
家に滞在すると、すぐにつかまってしまう。
選択肢はなく、中古車を買い、ペダルを踏んだ。
寒くて狭い、逃げるだけの、目的なき旅。
「……ん」
声が聞こえて、体が強張る。
頭から青薔薇を咲かせながら。お嬢様が、目を覚ます。
私の指が、記憶の花を摘む。
口に入れ、咀嚼し、唾液と混ぜる。
まだ寝ぼけている唇をこじ開け、ナギサちゃんの喉に、流し込んだ。
「おはよう。ナギサちゃん」
「おはようございます。恵巳さん」
「朝ごはん、買ってくるね」
「……すみません」
朝ごはんは、コンビニで買うしかない。
マスクと帽子で顔を隠し、自動ドアをくぐる。
サンドイッチとお茶。
昨夜に頼まれた、ペンとノート。
レジで支払いを終え、車に戻った。
「……はぁ」
手のひらと額に、冷や汗が滲んでいる。
「毎日、ありがとうございます」
ペットボトルの蓋を開け、手渡す。
受け取る手は、青虫が乗った葉っぱみたいに、震えていた。
彼女の腕には、物を持つ力も残っていない。
「ペンとノートも買ってきたよ。日記でも書くの?」
「はい。せっかくなので、最後まで続けたいんです」
「ナギサちゃんって、マメだよね」
「習慣づいているだけですよ」
食事を終え、あくびを噛み殺す。
「行こっか」
アクセルをふかすと、不安定なリズムで、エンジンが始動した。
しばらく、ドライブを楽しむ。
「恵巳さん」
「なに? 気分でも悪い?」
「いえ、大丈夫です。どこに向かってるんですか?」
「わかんない」
会話が終わり、無言が続く。
海沿いの道路を通ると、自然と走行速度が上がっていく。
「ねえ、ナギサちゃん」
「なんですか?」
「どこで死にたい?」
赤信号で、止まる。
子供たちの声が、聞こえた。小学生の登校班だ。
横断歩道を渡る姿を、テレビのように見つめる。
「うーん。恵巳さんの横なら、どこでもいいですよ」
「公衆トイレでも?」
「哀愁があっていいですね。ママの嫌そうな顔が目に浮かびます。まあ、顔は覚えてませんけど」
「覚えてないのに、憎いんだ」
集団に遅れて、ひとりの少女が渡る。
しかし、信号は変わっていた。
クラクションとブレーキ音、大人気ない怒声が、耳をつんざく。
私は静かにスピードを上げ、無視を決め込んだ。
「なんでしょうね。あたしも不思議です。憎しみだけを覚えている感じで……」
「そっか。感情は消えないんだ」
「面倒ですよね、人の体って」
「本当に」
歩道を横目で見ると、走って戻る女子小学生がいた。
自動車の速度を上げ、目を閉じる。
「じゃあ、死に場所でも、探そうか。誰にも見つからない場所」
「……みつかりますか?」
「わかんない。でも、納得はしたいじゃん」
「そう、ですね」
「乗り気じゃない?」
「あ、いえ……そうじゃなくて」
意味もなく、赤信号を無視する。
全身に鳥肌が立ち、肘から先が、固まった。
心臓が脈打ち、血の熱さで血管がヒリつく。
何重にも鳴り響くクラクションをすり抜け、十字路を無事に抜けた。
「寝起きのあれ、すごかったなあって……」
唇を舐めるお嬢様の、顔。
見惚れた時間は、ほんの一瞬だ。
しかし、致命的。
激しい衝突音とともに、電柱と車が、ディープキスをした。