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改稿前原稿保管庫 第32話 絞めた【薔薇食む】

 病室は、ナースステーションの隣だった。

 入ると、目に入る。ストレッチをさせられる、お父さん。

 若い男性に、膝を曲げさせられて、吐息を漏らしている。
 全身が、動いていない。
 呼吸だけを、繰り返している。

 10分ほどで終わり、介護士は隣の病人へ向かった。


「……お父さん」


 体には、複数の管が繋がっている。
 まるで操り人形のように思えて、ホッとした。
 突然殴られることは、ない。

 弟は私を無視して、出ていった。仕方がない。薄情者に優しい方が、異常だ。


「ほら、恵巳。ベッドの横に行って」
「私、ここでいいから」
「何言ってるの。もっと近くで」


 無気力な瞳と、視線が合う。

 まるで、アサガオの種のように静かで、暗い。
 

「お父さん、わかる? 恵巳が来てくれたのよー」


 お母さんの声掛けに、自分の耳を疑った。
 まるで、幼児に語りかけるような、口調。

 過去の彼は、亭主関白だった。
 妻は常に後ろを歩き、炊事場には立たない。家事も育児も、すべて伴侶任せ。
 昔の威厳は、消え失せている。


「ひさし、ぶり」


 脳裏に、蘇る。

 暴力的な、父親の姿。
 割れた茶碗の音が、耳鳴りのように、響いた。

 何度も。
 何度も。


「あ、ごめんなさい。先生が呼んでるみたいだから。お父さんと話してて」


 そそくさと廊下へ出る、お母さんの足音。
 私は、お父さんの顔から、目を離せない。

 顔の筋肉が衰え切っている。
 皮がたるみ、目もまともに開けられていない。

 口が、わずかに動いた。
 空気は震えていない。

 なのに、不思議と、聞こえた。


——俺を、殺せ。


 瞳の揺らめきが、物語っている。
 目の前にいる人間は、私と同じ、死にたがりだ。
 


「ははっ」


 乾いた笑いが、あふれ出た。

 岩のような頬を撫でると、頭の中がドス黒くなっていく。


「ねえ、私、お父さんのこと、嫌いなんだよ?」


 返事は、ない。
 静かに、凝視するだけ。

 手を、首筋に、這わせる。

 喉仏の、感触。
 呼吸の辛さが、感じ取れる。


「愛せないなら、産むんじゃねえ」


 腕に、力を入れる。
 父親の体は、暴れない。
 まるで、木を掴んでいるみたいだ。

 首絞めをすると、思い出す。

 夏の日差し。
 プールサイドの、尖った感触。
 スク水姿の、ナギサちゃん。

 水の中で、人魚みたいな首を、絞めあげて――

 あれ?
 私の手は、醜い首を

 ふっ、と力が抜け、尻もちをつく。 


「……ダメ。できない……」


 全身が、震えた。
 鳥肌が立ち、毛穴が開く。
 指先がしびれて、感覚が虚ろだ。

 ああ。
 私の手は、ナギサちゃんと触れ合うために、あるんだ


——意気地なし。


 恨み節が聞こえて、ベッドの脚を殴る。


「自分で死ねない奴が、何言ってんだよ……」


 お父さんの反応は、ない。
 ただ、瞼を閉じていた。


 次の日。
 お父さんは、飼われた金魚みたいに、死んだ。

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