病室は、ナースステーションの隣だった。
入ると、目に入る。ストレッチをさせられる、お父さん。
若い男性に、膝を曲げさせられて、吐息を漏らしている。
全身が、動いていない。
呼吸だけを、繰り返している。
10分ほどで終わり、介護士は隣の病人へ向かった。
「……お父さん」
体には、複数の管が繋がっている。
まるで操り人形のように思えて、ホッとした。
突然殴られることは、ない。
弟は私を無視して、出ていった。仕方がない。薄情者に優しい方が、異常だ。
「ほら、恵巳。ベッドの横に行って」
「私、ここでいいから」
「何言ってるの。もっと近くで」
無気力な瞳と、視線が合う。
まるで、アサガオの種のように静かで、暗い。
「お父さん、わかる? 恵巳が来てくれたのよー」
お母さんの声掛けに、自分の耳を疑った。
まるで、幼児に語りかけるような、口調。
過去の彼は、亭主関白だった。
妻は常に後ろを歩き、炊事場には立たない。家事も育児も、すべて伴侶任せ。
昔の威厳は、消え失せている。
「ひさし、ぶり」
脳裏に、蘇る。
暴力的な、父親の姿。
割れた茶碗の音が、耳鳴りのように、響いた。
何度も。
何度も。
「あ、ごめんなさい。先生が呼んでるみたいだから。お父さんと話してて」
そそくさと廊下へ出る、お母さんの足音。
私は、お父さんの顔から、目を離せない。
顔の筋肉が衰え切っている。
皮がたるみ、目もまともに開けられていない。
口が、わずかに動いた。
空気は震えていない。
なのに、不思議と、聞こえた。
——俺を、殺せ。
瞳の揺らめきが、物語っている。
目の前にいる人間は、私と同じ、死にたがりだ。
「ははっ」
乾いた笑いが、あふれ出た。
岩のような頬を撫でると、頭の中がドス黒くなっていく。
「ねえ、私、お父さんのこと、嫌いなんだよ?」
返事は、ない。
静かに、凝視するだけ。
手を、首筋に、這わせる。
喉仏の、感触。
呼吸の辛さが、感じ取れる。
「愛せないなら、産むんじゃねえ」
腕に、力を入れる。
父親の体は、暴れない。
まるで、木を掴んでいるみたいだ。
首絞めをすると、思い出す。
夏の日差し。
プールサイドの、尖った感触。
スク水姿の、ナギサちゃん。
水の中で、人魚みたいな首を、絞めあげて――
あれ?
私の手は、醜い首を
ふっ、と力が抜け、尻もちをつく。
「……ダメ。できない……」
全身が、震えた。
鳥肌が立ち、毛穴が開く。
指先がしびれて、感覚が虚ろだ。
ああ。
私の手は、ナギサちゃんと触れ合うために、あるんだ
——意気地なし。
恨み節が聞こえて、ベッドの脚を殴る。
「自分で死ねない奴が、何言ってんだよ……」
お父さんの反応は、ない。
ただ、瞼を閉じていた。
次の日。
お父さんは、飼われた金魚みたいに、死んだ。