身動きをとると、ビール缶が、転がった。
呼吸するだけで、せき込む。
空気が、真夏の更衣室みたいに、淀んでいる。
腐臭が鼻をつき、耳鳴りが響く。
虫が這うようなかゆみが、肌を常に刺激している。
呼吸と共に、ハエが、口内に迷い込んだ。
瞼が、重い。
体を起こすだけでも、分針が一回りした。
「……いき、てる……わたし」
意味もなく、パジャマに鼻を近づける。もう、匂いもわからない。
着替えた日は、はるか昔だ。
「……ナギサ、ちゃん。おはよう」
20本の青薔薇を前に、微笑んだ。
返事は、ない。
ゴミの道を渡り、キッチンへ向かう。
ゼリー飲料を取り出し、体へ流し込む。空容器は、放り投げた。
「……はぁ。何やってるん、だろう。私」
本体のボタンを押し、テレビを点ける。
画面に表示された映像は、ナギサちゃんの顔だった。
「……はは」
私が撮影したホームビデオとは、違う。
全国の電波に乗った、映像だ。
私だけの青薔薇は、時の人となった。
青薔薇病。
見目麗しい、女子高生。
毎日、記憶喪失する現象。
すべての要素が、大衆の心を打った。
薄幸の女子高校生を取り上げるメディアは、テレビだけではない。
動画投稿サイトで、毎日、経過が投稿されている。
記憶を失い、幼い人格へと変化する、過程を。
ナギサちゃんママは、娘を利用し、知名度を拡大。映画化も決まり、本人役で出演予定だ。
父親が役員を務める保険会社も好調と、アナウンサーが報じていた。
兎本ナギサの顔を見ない日は、ない。
「……気持ち、わる」
テレビを消し、スマホを持つ。充電がなく、起動しなかった。
壊れたまま、充電器を買い換えていない。
「……はぁ」
意味もなく、枕元の|包丁《・・》を、握る。
手料理を作るため、毎日ナギサちゃんが握っていた、調理器具。
刃の腹を、青空のように、見つめる。
手首に当てて、静止した。
心臓が鼓動を早め、心が、落ち着く。
「そう、だよね」
一度だけ深呼吸すると、四肢の感覚が、明確になった。
「ちょっとぐらいは外に出ないとね」
シャワーを浴び、Tシャツに着替える。
外に出ると、空気が別物だった。
人目を避けながら、行く当てのない、散歩をする。
空は、夏らしく、透き通っていた。
10分も経たないうちに、ふくらはぎが張り、息が上がる。
顔を上げると、校門が見えた。
ナギサちゃんと通った、高校だ。
今日は、休日。
生徒の姿は、ない。
「……なつかしい」
侵入し、彼女の名前を呼びながら、見て回る。
教室。プール。体育館。
思い出の、場所たち。
寂しさが広がるだけで、胃腸が痛んだ。
「帰ろう……」
歩く足が、重い。
錆びたブリキの人形になった気分だ。
周囲の人に、追い抜かれる。
私が1歩進む合間に、サラリーマンは3歩、進む。主婦は、6歩。小学生は、10歩。
アパートが視界に入った頃には、日が沈んでいた。
「……今日も、終わり、か……」
共有スペースを抜け、部屋の前につき、足を止めた。
いる。
誰かが、座って。
「……ナギサ、ちゃん?」
視界が、巻き戻っていく。
1年半前の、景色。
女子中学生を拾った、|あの日《・・・》。
手を、伸ばす。
口角が、上がる。
青薔薇が、視界の端々に、咲き誇った。
ああ。
私、やっぱり――
「あなた、こんな時間まで何をしてたの……?」
声が聞こえた瞬間、足元が、抜けた。
女性が、立ち上がるほどに、理解する。
違う。
背格好も、雰囲気も、異なる。
口の奥底から、自然と、言葉が出た。
「……お母、さん?」
私を産んだ、人。
「電話にも出ないから……」
私の記憶にある母親は、恰幅がいい
今の姿は、病人みたいに、細かった。
「ねえ。あなた、何してるの? 会社に電話したら、とっくに退職したって」
「…………」
「まあ、いいわ」
舌の根を掴まれたみたいに、声が、出ない。
肩を掴まれて、感じる。
お母さんの、力の無さ。バナナをつぶせないぐらい、弱々しい。
「ねえ、前から言ってたでしょう? お父さん、神経の病気だって」
首だけで、頷く。
「もう、話せないし、寝たきり。あの人、人工呼吸器はイヤだって言ってたから……。延命治療は最小限にしてて……」
全身から、水分が、抜けていく。
「昨日、先生に言われたの。覚悟しておいてくださいって……。ねえ。だから、会いにきなさい……」
床が、濡れた。
ああ。
涙の落下地点が、塗り替えられていく。
ナギサちゃんとの、出会いの、思い出が……。
自然と、私の顔が、引きつり笑いを、浮かべた。
【後書き】
ここまで読んで頂き、ありがとうございます!
明日は本編から外れ、番外編を投稿予定です
本編で書けなかった、2人の日常!