ナギサちゃんの記憶喪失以外にも、問題がある。
ナギサちゃんママが、いつ強襲するか、不明だ。
もしも、不意をつかれて、ナギサちゃんの心が壊れてしまったら……。
私の選択肢は、ひとつだった。
明本先生に連絡をとり、食事会が開かれる。
場所は、2つ星のフレンチレストラン。
反骨心から、ラフな服装で入店したけど、居たたまれなくなった。
「あ、恵巳ちゃーん」
明本先生と、美しい女性が、すでに席についていた。
高尚な雰囲気に呑まれながら、私はリスのように座る。
「あなたが鳥海恵巳さん?」
「は、はい……」
声で、確信した。
サザンカのように優美な女性が、ナギサちゃんのママだ。
「どう? 素敵なお店でしょ? あなたでは一生入れないような」
「……当てつけですか」
「あらあら。そんなことは無いわよ。これはほんのお礼」
「えっと、なんの、ですか?」
彼女の動きのすべてが、芝居がかっている。
街頭演説をする、国会議員に近い。
「ほら。ナギサちゃんをお世話してくれたでしょう? あの子、気難しいのよ。反抗期って言うのかしらねぇ。一緒にいると、肌が荒れちゃうの」
「彼女は、とってもいい子ですよ」
「それは、あなたが他人だからでしょ? 外面はいっぱい教育したから」
「……」
食事が、運ばれてきた。
前菜。
軽い食感の、なにか。
手で掴んでいいのかも判断できず、ふたりの後に食べた。
味は不思議だけど、おいしい。
「聞いたわよ。ナギサの記憶のこと」
「……病院から、ですか?」
「保護者はあたしよ。本来、あなたが寄り添っているシチュエーションがおかしいの」
手汗がにじんで、細い息を吐く。
「眠るたびに、1か月分の記憶を失う。いいことじゃない。とっても便利」
「べん……り……?」
「だって、そうでしょう? 記憶を失うほど、あたしに従ってくれるもの」
彼女の言葉が聴覚神経を刺激するたび、肺が冷え、視界が歪む。
「だから、あなたの記憶が消失するまで、預けることにしたわ。あと1週間ぐらいかしら」
舌が、動かない。
心の中では、何百人もの私が、叫んでいる。
ふざけるな。
お前のせいだろ。
それでも親か。
ろくでなし。
クズ。
人間失格。
「ちゃんとあなたの家に迎えに行くから、|安心してね《・・・・・》? もう、関係者には話を通してあるから」
スープ。魚料理。メインディッシュ。
食べても、感情が動かない。
咀嚼し、嚥下するだけ。
見た目は、おいしそう。ナギサちゃんとのディナーだったら、一生の思い出になったはずだ。
鼓膜を刺激する音は、ナギサちゃんママの自慢話だけ。
有名な映画監督と寝たとか、お笑い芸人を怒鳴ったとか、過去の栄光ばかりだった。
デザートをお腹に収めても、満腹感はない。
「それじゃあ、よろしくねー」
「うん。姉さん、ありがとう」
「いいのいいの。夫の相手も疲れるし、いい気分転換になったわー。それじゃあ、恵巳さん、よろしくねー」
体幹が整った後姿を見送ると、筋肉が緩んだ。
「大丈夫? 恵巳ちゃん」
「えっと……」
「高級なお店で緊張した?」
「あ、うん」
頭が回らなくて、無意識に肯定した。
「いやー、よかったわね」
「よか、った……?」
「姉さんが許してくれたじゃない。あんなの、奇跡よ」
私の足が、半歩下がった。
「ただでさえ、同い年の生徒で大変なのに、犯罪者になったら……もう、ねぇ」
瞬きも忘れて、明本先生の顔を凝視する。
嘘の言葉には、見えない。本心から、口に出してる。
「丸く収まって、よかったー。これで、ぐっすり眠れるわー」
街灯の光を受けながら、明本先生は背伸びした。
うなじがチラ見えすると、蘇った。授業中、前列の彼女に見惚れた、青臭い時間。
「ねえ、志緒里ちゃん」
「どうしたの?」
「転校してすぐ、なんで私に声をかけたの?」
心臓が、痛い。
耳鳴りがする。
眼前の初恋は、にこやかに笑った。
「だって、あなた、寂しそうにしていたでしょ?」
「そう、見えた?」
「なんだか、放っておけなかったのよ。わたし、困っている人が好きだから」
「どう……して?」
「だって、助けたら気持ちがいいじゃない」
「……そっか」
ああ。
だから、助けた後に、興味が、ないんだ。
もう、呼吸をする感覚も、失せた。
全身がゴムになった気分だ。
「私、もう、学校に行かないから」
「あら、そうなの?」
「うん。ナギサちゃんが、私を忘れるまで」
「そう。ちょっと寂しくなるわね」
帰り道。
私は、ナメクジのように、進んだ。
ふと、歩く気力が尽きる。考えもなく、電柱に額をこすりつけた。
コンクリートの無骨な冷たさが、心の奥底を覚醒させていく。。
「全部、死ねよ」
円柱を、蹴りつけた。
街灯が明滅する中、何度も。何度も。ふたりの顔を思い浮かべながら。
息を上げても、傷ひとつ、ない。
「……ナギサちゃん」
帰って、ただ、同じ空気を吸いたい。
純朴な一心を抱えながら、駆け足で帰るしか、なかった。