普段、チャイムは鳴らない。
来客はいないし、通販は置き配にする。
再度、鳴った。
ドアの前に、未知の人物が、立っている。
体がこわばって、手のひらが冷や汗で濡れた。
「恵巳さん……」
ナギサちゃんの腕が、瞳が、震えている。
病弱少女らしい、姿。
「隠れてよう」
「……はい」
息をひそめ、薔薇の枝みたいな体を、抱きしめる。
ドアを殴りつける音が、響く。
部屋の全てが揺れ、空気が、重苦しく、沈んだ。
「ねえ! いるんでしょ! 出て来なさい!!」
私の記憶にはない、女性の声。
突如、ナギサちゃんの体が、。
「なんで!?」
「……ナギサ、ちゃん?」
「ママが……なんで……あ、そっか。おばさん……」
突然チャイムを鳴らし、ドアを叩き、怒鳴っている女性が、ナギサちゃんのママ……?
血の繋がりを感じないほど、性格が真逆だ。
「ほら! 家出なんてバカなことはやめなさいっ! あなたが外の世界で生きていけるわけないでしょ!」
細くて青ざめた腕が、私にしがみつく。
「いや、いやいやいやいやいやいやっ!!!」
「落ち着いてっ! 大丈夫だから……」
私にできるのは、抱擁だけ。
「ナギサちゃーん。ママよー。怒らないから、帰ってきてちょうだーい」
今度は、猫撫で声。
同じ声帯から発せられた音とは、思えない。
そっか。
私が嫌いなタイプだ。
感情も、気持ちも、道具にしてる。
全部、思い通りにさせる、狂気。
「ごめんなさい……ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
「……ナギサちゃん。謝らなくて、いいから」
「もっと勉強するから。お願い、怒鳴らないで。殴らないで。いい子にするから。いい子……いい子に…………。いい子って……」
必死に、ナギサちゃんの耳を塞ぐ。
でも、暴れるせいで、失敗した。
「返事はないのー? そっかー。そうだよねー。ナギサって、いつもそうだよねー」
声に抑揚があるのに、冷たい。
やまびこみたいに、部屋の中で反響する。
「産んであげた恩を忘れたのかな? パパがお願いするから、頑張って出産したのになー」
「……やめて、もう、何度も聞いたから……お願い……」
「ナギサを産んだ時、すっごく大変だったのよ。スキャンダルになって、女優の仕事は途絶えるし、復帰後も一苦労。もう、アタシの人生はメチャクチャ」
「頼んでない。頼んでない、頼んでない!!!」
「はあぁぁ。あんたなんか産まなければ、今頃、もっと充実した人生になっていたわ」
「恵巳さん!」
涙に溺れた瞳が、私をみつめた。
「あたしの耳、壊して……」
とっさに、首を横に振っていた。
ナギサちゃんが最後に聞く声は、私がいい。
「昔から言ってるでしょ。もっと話題になることしなさいよ。ニュースになること。そうじゃないと、アタシの仕事に繋がらないでしょ?」
小さな耳の穴に、指を入れる。
でも、耳栓には程遠い。
「でも、許すわよ。あんたの病気、使えるの。珍しい病気。悲劇の母親。テレビのディレクターたちが、こぞって仕事をくれるわ。パパの会社の宣伝にも、きっと効果的よ」
首筋を、噛む。
手首の傷跡を、強く、握る。
必死に、ただ必死に。
でも、涙がやまない。
思わず、奥歯を噛みしめた。
ナギサちゃんは私のすべてなのに、母親の存在が、大きいんだ。
「あなたが青薔薇病にかかって、やっとわかったの。この子は青薔薇を咲かせながら死ぬために生まれてきたんだって」
違う。
ナギサちゃんは、私と死ぬために生まれてきたの。
もう、聞きたくない。
黙らせたい。殺したい。
「だから、帰って来なさい。いっぱい優しくしてあげるから。ね?」
機嫌のいい声が、虚しく、空気にとけた。
全部、演技なんだ。
こんな人がいる世界、いたくない。
「はぁ。まあ、いいわ。明日も来るわねー。あ、逃げても無駄よ。専門家を雇ってるから」
ハイヒールの歩行音が、遠ざかっていく。
空気は、変わらない。
緊張が、続く。
体が震えて、息が詰まる。
「……恵巳さん」
粉雪のような声が、私の耳を抜ける。
「あたし、もう、死にたい、です……」
「ダメだよ。笑顔で、死なないと」
「でも、どこに逃げればいいんですか……?」
頭を撫でようとして、手が止まる。
吐息だけでも壊れそうな少女に、触れられない。
「あたしの頭、勝手に思い出すんです。この体、両親の血が流れてて……。どこまでも、付きまとうんです」
「……ナギサちゃん」
「恵巳さん。あたし、もう、いっぱい、生きましたよね……?」
首を、差し出される。
手を伸ばしても、真冬のように震えて、力が入らない。
ふと、ナギサちゃんの瞳が、濁った。
「ふふふ。ふふふふふ」
上品な笑い声が、青い唇から、漏れる。
「ああ。見てください、恵巳さん。あんなところに、光りが……」
「……え?」
ナギサちゃんが指さす先を、見た。
天井のシミがあるだけ。私の目には、何も映らない。
「すごいですよ。こんなの、見たことない」
「いや、何を言って……?」
「ほら、行きましょう。あんなに楽しそうなんですから」
「そこっ! なにもない!」
無我夢中に、彼女を押し倒した瞬間、目を見開いた。
血色のない体から、血が流れはじめる。
鼻から、目から、頭から、涙みたいに垂れていく。
頭部が膨らみ、顔を出す。
幼児のように大きな、一輪の、青薔薇。
最後の誕生日、前週。
ナギサちゃんは、1か月間の記憶を、失った。