家に帰ると、ナギサちゃんが、制服のまま寝ていた。
私のベッドの上で、穏やかに上下する、胸部。
今日は始業式だったし、疲れたのかな。
「……ナギサちゃん」
血管すらも美しい手の甲を、撫でる。
小さい時に埋めた、カラスの死骸みたいに、冷えていた。
厳かに、彼女の手を持ち上げて、私の首に当てる。
細い指一本一本を、首に這わせ、想像した。
ナギサちゃんに、首を絞められるシーン。
箸しか持てない細腕に、命を奪われる。
この世界で唯一、私を許してくれる人に、壊されたい。
ああ。
もう、このまま……。
「恵巳さん……辛い事があったんですか……?」
朧げな声が聞こえて、現実が戻ってきた。
「ごめん。起こしちゃった?」
「大丈夫ですよ。恵巳さんとの時間が、一番大切ですから」
「私はナギサちゃんの寝顔を見るの、好きだよ」
「ありがとうございます。でも、ひとりで堪能するのはズルいですよ」
「そんなに、ズルい?」
「はい、ズルいです」
ナギサちゃんは体を起こし、飛行機雲のように長い息を吐いた。
「それで、何があったんですか?」
「明本先生とお茶するとは伝えたよね」
「はい」
「彼女って、ナギサちゃんのおばさんで、合ってる……? 色々と聞かれたけど」
「はい。小さい頃、何度か会ったことがあります」
世間って、狭い。
運命を感じて、ときめくんじゃなくて、ウンザリする。
「ちょっと昔話とか、あと、ナギサちゃんの両親についても聞いた。学校の先生は、底辺なんだって。すごいね」
「あの人たちは、誰かを見下さないと生きていけないので」
「そっか」
生きやすそうで、うらやましい。
「あたし、夢だったんです。学校の先生になるの」
「そうなの? きっと、人気の先生になれるよ。教えるの上手だし」
「ふふふ。恵巳さんは、教え甲斐がありますよね」
でも、彼女の余命は、残り半年。
夢なんて、虚しい。
「それでね。明本先生って、私のクラスメイトだったの。その……高校時代に好きになって、交換日記とか告白した人」
「……はい」
「驚かないんだ」
「態度から、なんとなくわかってましたから」
怖くて、細い体を抱きしめた。
「ごめんね。すぐに伝えなくて」
「恵巳さんの顔、真っ青でしたから」
「そうなの?」
「ずっと上の空でしたよ。ちょっとかわいかったです」
「あはは……」
恥ずかしいし、話を戻そう。
「明本先生と話してて、辛くなったの。失恋相手ってだけじゃなくて、過去の失敗を思い出して……」
「……聞いても、いいですか?」
唇が、乾く。
ツバが粘ついて、口を開くだけで、水音が響いた。
「ナギサちゃんと、同じこと」
「え、どれのことですか?」
「たまに、料理に髪の毛とか入れてるでしょ?」
「はい。おいしそうに食べてくれますよね」
「うん。気持ち、よくわかるから。私はバレンタインチョコに入れたんだ。告白と一緒に」
「……志緒里おばさん相手に、ですか?」
「うん。喜んでくれるって、本当に思ってた」
「おばさんは、普通ですから」
「そうだね」
当時の私は、若かった。ううん。生まれた時から、壊れてたんだ。
生きづらかったのも、納得できる。
「告白の返事はもちろん、ごめんなさい。手を握ってくれたんだけど、やっぱり無理って……。失禁したら、それがクラス中に広まってて、疲れちゃった」
まだ、火傷みたいに、握手の感触が残ってる。
「大丈夫ですよ」
余命半年の手が、握ってくれた。
全然、熱くない。
目を合わせると、表情を緩めてくれた。
「不登校になってから、もう一度明本先生と会う機会があったの」
「……なにか、あったんですか」
「家に押し入ってきたんだ。あんたのせいで、好きな人に振られたって、怒鳴られながら……」
「……想像、できません」
「そうだよね。当時の私も意味がわからなくて、とにかく謝ってた。そしたら、言われたの。窓から飛び降りてって」
結果は、今の私。
さらに壊れただけだった。
「やっぱり、あたしの血筋は最低ですね」
「いいじゃん。最低で。今、気持ちいいんだから」
「ふふふ。恵巳さんは、すごいですね」
最低でもいいよ。
そのまま生きていくのが、一番気持ちいい。
「ナギサちゃん、私の首、思いっきり締めてくれない?」
「……今のあたし、力ないですよ?」
「ちょっとでいいから」
ベッドに倒れ込むと、ナギサちゃんが馬乗りになった。
慣れた手つきで、喉首に指がからまる。
「いきますね」
痛み、苦しみもない。
全然、気道も動脈も締まっていなかった。
でも、私の体が、勝手に呼吸を止めていく。
細胞のひとつひとつが、眠った。
「どう、ですか?」
「……ありがとう。スッキリした」
「それはよかったです」
彼女が見せたのは、お餅みたいに、柔らかい笑顔。
去年みたいな元気さは、もうない。
「ねえ、ナギサちゃん、今年の誕生日プレゼント、なにがいい?」
17歳。
人生最後の、誕生日。
「うーん。思いつきません」
「今年はパーティーあるのかな」
「恵巳さんが祝ってくれるなら、それで十分ですよ」
「……うん」
嬉しいけど、喜べない。
私、身勝手に考えてる。
あの世でも忘れない贈り物をしたいって。
ふと、玄関から、聞こえた。
サビついた、チャイムの音が。