第16話エピローグ:アルゴノーティス
あの事件が終わってからも、いつもと変わらない日常はやってきた。
客が来ては酒を飲み、笑い、ときにはくだらないことで喧嘩を始める。
そんな当たり前の光景を眺めながら、私はいつものようにカウンターの内側でグラスを磨いていた。
そんなある日のことだった。
《XXX財団》を名乗る者たちが店にやってきた。
黒いスーツに黒いサングラス。いかにもエージェントらしい男たちが数人。
その中に一人だけ、場違いなほど油と鉄の匂いをまとった女がいた。
女はフローレンスと名乗った。
財団に所属するメカニックらしい。
その姿を見て、私はあの渓谷に置いてきたままの愛車を思い出した。
そういえばミナトは、私の車を回収して整備するよう依頼すると言っていた。
「あんたの車なら、もう回収してあるよ。なかなか良い車じゃないか。あれだけ派手に走らせたわりには、致命的な損傷もなかった。ひと通り整備して、店の裏に停めてある」
フローレンスは、まるで自分の愛車について語るように笑った。
どうやら彼女は、あの車の良さを分かってくれたらしい。
後になって、私たちは酒と車の話で意気投合し、気づけば飲み仲間になっていた。
それだけではなかった。
今回の件における協力への補償――私に言わせれば口止め料として、見たこともない桁の小切手を渡された。
だが、今の私には金額よりも気になることがあった。
私は少し迷ったあと、フローレンスに尋ねた。
「なぁ。ミナ……いや、ソウは、どうしている?」
「ソウ? ああ、彼ね。今は財団の医療部門で治療を受けているよ。全治三か月の大怪我だ」
「……三か月?」
思わず声が漏れた。
ある程度の怪我は予想していた。それでも、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が冷たくなる。
そんな私の顔を見て、フローレンスは安心させるように口元を緩めた。
「大丈夫さ。今はICUにいるけど、容体は安定している。一週間もすれば財団管轄の一般病棟へ移れるだろう。それにしても、相変わらず今回も無茶をしたんだろ? 医療班に運ばれる直前まで、うちの
「……喧嘩?」
その二文字を聞いた瞬間、私はバーでの出来事を思い出した。
きっと、あのとき電話越しに怒鳴り合っていた人物が、その相手なのだろう。
記憶の中の声をたどっていると、隣にいた男が咳払いをした。
「Miss.フローレンス。私たちは、そのような無駄話をするために来たわけではありません。本来であれば、彼女は――」
「分かっているよ、Mr.ベックマン。少しくらい良いだろう? あのソウ……いや、No.1073《ヒトマルナナサン》があれほど褒めていた女だ。みんな気になっていたんだからさ」
彼女の言葉に、胸が高鳴った。
ミナトが、私のことを――。
「あ……あいつが、なんて言っていたんだ?」
はやる気持ちとは裏腹に、返ってきたのは意外な言葉だった。
「え? ああ……がさつで、酒と煙草にだらしない女」
フローレンスは一瞬だけ言うのをためらったものの、同じ女として開き直ったように、あっさりと言い切った。
胸の奥に芽生えていた淡い期待が、音を立ててしぼんでいく。
それと同時に、見ず知らずの相手にいらぬ誤解を与えたあいつの無神経さへ、ふつふつと怒りが湧いた。
きっと、すべて顔に出ていたのだろう。
フローレンスは堪えきれないように吹き出した。
「ごめん、ごめん。今のは私の言い方が悪かった。ただ、やっぱり思ったとおりの人だと思ってさ」
「……どういう意味だよ」
私が眉を寄せると、彼女は笑いを収め、事の経緯を話してくれた。
ミナトは財団へ帰還した直後、自分の治療より先に、私の車の回収と修理を依頼したらしい。
今回、ミナトが行っていた調査は、政府非公認の団体による極秘作戦だった。
一般人の介入は厳しく禁じられており、特にミナトが担当する事案は、どれも一癖も二癖もあるものばかり。最悪の場合、死人が出てもおかしくない。
そのため、ミナトは単独で行動することが多く、仲間内でも一匹狼として通っていたという。
そんな男の口から、見知らぬ女の話が出た。
フローレンスが興味を持たないはずがなかった。
「珍しいじゃないか。あんたの口から女の話が出るなんて。さては……その女と何かあったのかい?」
彼女もまた、そんなミナトをからかうように尋ねたという。
するとミナトは、ほんの少しだけ笑って答えた。
「ふっ……そうだな。がさつで、酒と煙草にだらしない女だ。笑ったかと思えば泣いたり、感情表現が豊かで、おまけに話し好き。でも……芯に強さがある。彼女がいたから、俺は生きて帰ってこられた」
そのときのミナトは、まるで少年のような、柔らかい笑顔を浮かべていたらしい。
フローレンスは、初めて目にしたその表情に、咥えていた煙草の灰を落とすほど呆気に取られたという。
数日前まで、どこか鬼気迫る表情をしていた男。
その男を変え、生きて帰らせた女。
だから、どうしても一度会ってみたくなったのだと、フローレンスは笑った。
「……バカ野郎。もっとマシな紹介の仕方があるだろ」
そう悪態をつきながらも、胸の奥には温かいものがじんわりと広がっていた。
きっとまた顔に出ていたのだろう。
緩みそうになる口元を隠すように、私はフローレンスから顔を背けた。
♢
その後、フローレンスは「今度は客として飲みに来るよ」と言い残し、財団へ戻るため店を出ていった。
私はMr.ベックマンから、機密保持に関する誓約書の内容を事細かに聞かされ、最後に署名した。
かつてのような通信網が失われた今、本当にこの小切手を換金できるのかは疑わしい。
それでも、貰えるものは貰っておこうと思った。
この金があれば、店の改築費に充てられる。
店を今より少し広くできれば、もっと多くの人間が集まれる。
カーディフで暮らす人たちにとって、ここがほんのわずかでも憩いの場所になればいい。
私は左胸のポケットから煙草を取り出し、口に咥えて火を点けた。
口の中に広がる香りを味わいながら、静かに紫煙を吐き出す。
煙は、あいつが座っていた席へゆっくりと流れていった。
静まり返ったバーに残る、私たちの思い出。
ミナトは言った。
――また来る、と。
♦︎
意外にも、ミナトは律儀なやつだった。
任務でこちらへ来るたび、必ず店に顔を出した。
そして任務を終えれば、今度はその冒険譚を語りに来た。
その話を肴に、私たちは大いに笑い、酒を酌み交わした。
やがてミナトは、また次の任務へ向かう。
それの繰り返しだった。
気づけば、あれから七年の月日が流れていた。
復興は進み、世界はかつての豊かさを少しずつ取り戻しつつある。
ロンドンもまた、世界有数の復興先進都市になろうとしていた。
カーディフもその恩恵を受け、ロンドンへ続く高速交通網が整備されたことで、以前より仕入れがずっと楽になった。
そのおかげかは知らないが、ミナトが店へ来る頻度も増えた。
今では週に二、三度は顔を見せる、立派な常連だ。
以前と違うのは、一人ではなく仲間を連れてくるようになったことだった。
そいつらも、ミナトに負けず劣らずの癖者ばかりだ。
頭でっかちの長身インテリ野郎。
その助手を名乗る、眼鏡をかけた女。
私と同じくらい顔立ちが整い、皆から《所長》と呼ばれている品のあるお嬢様。
そして今日は、その中でも一番厄介な連中を連れてきたらしい。
「ソフィアお姉ちゃーーん!」
ドンッ、と開店前の扉が勢いよく開いた。
声の主は、そのまま私の胸へ飛び込んできた。
ピンクと黒を基調としたメイド服を身にまとった少女。
小柄な身体と、鮮やかなピンク色の髪が特徴的な”R”だ。
私によく懐き、顔を合わせるたびにこうして抱きついてくる。
妹とも娘とも呼べない年齢差だが、兄しかいなかった私にとって、これほど懐かれるのは悪くなかった。
「”R”……そんなにくっついたら、ソフィアお姉ちゃんが身動きできないよ……」
「だって、だって♪ 久しぶりの"アルゴノーティス”だよ? それに私、ソフィアお姉ちゃんのこの香りが好きなんだ。本当は"L”もしたいくせに♡」
そう言って"R”は、これでもかというほど私の胸元に顔を押しつけてくる。
その隣で、双子の妹が呆れたように小さなため息をついた。
"L”もまた、姉と対になる青と黒のメイド服を身にまとい、髪も鮮やかな青色をしている。
姉とは対照的に物静かで、感情を表に出すことは少ない。
だから私は、なるべく自分から声をかけ、彼女の小さな変化を見逃さないようにしていた。
「”L”。そういえば、あいつはどうした?」
私が笑顔で尋ねると、"L”の口元にもかすかな笑みが広がった。
「……
「……ったく。相変わらずだな、あの二人は」
私の言葉に、"L”が小さく笑う。
そんな会話をしていると、開いたままの扉の向こうから、ようやくあいつが姿を現した。
"L”が話していたとおり、すこぶる機嫌が悪そうだった。
眉間には深い皺が寄り、口元も不満げに歪んでいる。
だが、私と目が合った瞬間、その表情は一変した。
眉間の皺がほどけ、吊り上がっていた口元が自然と緩む。
「やあ、ソフィア。いつものやつを三つ頼むよ」
「もちろん。ちょうど良いものが手に入ったんだ。それと――今日は、どんな話を聞かせてくれるんだい?」
私が挑むように上目遣いを向けると、ミナトは楽しそうに笑った。
「今回も、ひと波乱あったよ。なあ、"L”?」
「……うん。"R”が、貴重な聖遺物≪オーパーツ>を刀で真っ二つにした」
「ちょっ……! それは言わない約束でしょ! あとで"カイン”さんに知られたら、また説教と始末書コースじゃん!」
その言葉をきっかけに、店の中は一気に笑い声で満たされた。
そうだ。
私の店は、こうでなくてはいけない。
誰もが笑顔で集える場所。
そして、これから語られる物語の出発地点。
私が語れるのは、ここまでだ。
この先を語るのは、私の役目ではない。
私はただ、彼らがまた帰ってこられる場所を守り続けるだけ。
この物語の続きは、ミナトの口から語られる。
私は、そんな物語をビール片手に聞くのが好きだ。
だから、待つ。
これからミナトを待ち受ける運命と、世界を懸けた物語。
そのすべてを越えて、あいつがまた、この扉を開ける日を。
ふと窓の向こうへ目を向けると、空の雲行きが変わっていた。
まるで、あの日ロンドンを出発したときのような――。
大きな嵐の前触れを思わせる空だった。
それでも、もう怖くはない。
どんな未来を越えても、あいつらはまた、ここへ帰ってくる。
だから私は今日も、この店の灯りを点けて待っている。
いつかまた、私たちの未来が重なる、その時まで。
~Fin~
『クロス・オーバー ――いつか君と重なる未来――』 © 一ノ瀬 玲央(Reo Ichinos @reoichinose500
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