第15話:また、この場所で
瞼の裏側で、青白い稲妻が何度も瞬いていた。
全身を貫いた衝撃。
鼓膜を震わせる轟音。
そして、ソウが最後に叫んだ言葉――。
“Κεραυνὸς Ὑπέρορμος《ケラウノス・オーバードライブ》”
意識を失ったはずなのに、その声だけは頭の奥にこびりついて離れなかった。
◇
どのくらい時間が経ったのだろう――。
「――フィア」
誰かが私を呼んでいる。
「ソフィア」
低く、聞き慣れた声。
閉じていた瞼を持ち上げると、ぼやけた視界の向こうに男の顔が浮かんでいた。
「……ソウ?」
「ああ、俺だ」
身体を起こそうとした瞬間、頭の奥がぐらりと揺れた。
「動くな。まだ休んでいた方がいい」
「……ありがとう。でも、もう大丈夫だから」
上半身を起こすと、全身の骨が軋み、肺の奥まで痛むような感覚がした。
それでも何とか周囲を見渡し――私は言葉を失った。
洞窟の景色は、私が意識を失う前とは完全に変わっていた。
黄金の光で満たされていた空間は静まり返り、壁や地面の至るところが黒く焼け焦げている。
地面には大きな亀裂が走り、その中心から白い煙が立ち上っていた。
そして――。
あの巨大な黄金髑髏の姿はなかった。
代わりに、洞窟そのものを抉り取ったような巨大な穴が口を開け、まるで一本のトンネルのように彼方まで続いていた。
穿たれた穴の奥から、微かな光が差し込んでいる。
「倒した……のか?」
「ああ」
ソウが短く答える。
「君が1分間、あいつを引きつけてくれたからな」
地面の上には、黄金髑髏だったものの残骸が散らばっていた。
細かく砕けた骨。
黒く変色した金属片。
そして、鈍い光を放つ黄金色の欠片。
それを見た瞬間、身体から一気に力が抜けた。
「終わったな……」
「まだ無理をするな、ソフィア」
安堵と同時に、張り詰めていたものが崩れていく。
膝からも力が抜け、倒れかけた私の身体をソウが支えてくれた。
私はその場に座り込み、深く息を吐いた。
怖かった。
本当は、ずっと逃げ出したかった。
何度も死ぬと思った。
それでも――。
「1分……ちゃんと稼げたんだな」
「十分過ぎるほどにな」
ソウは静かに笑った。
「君が作ってくれた隙がなければ、
そう言って、ソウは自分の左腕へ視線を落とす。
「それに、君が俺の腕を支えてくれなければ、反動に耐えることもできなかっただろう」
「……じゃあ、私のおかげで勝てたってことか?」
「そういうことになるな」
「もっと堂々と言えよ。私がいなければ、倒せなかったって」
「君がいなければ、俺はここに立っていない」
あまりにも真っ直ぐな言葉だった。
からかってやるつもりだったのに、何も言い返せなくなる。
私は誤魔化すように鼻を鳴らした。
「最初から、そう素直に認めればいいんだよ」
「……そうだな」
そう言って立ち上がろうとしたソウの身体が、僅かに傾いた。
「おい!」
咄嗟に、今度は私がその身体を支える。
ソウの右義腕は失われたまま。
残された左腕も、指先から肩口にかけて酷く焼けていた。
ナノアーマの表面は黒く変色し、細い煙が立ち上っている。
「何だよ、それ……」
「ナノアーマの回路が焼き切れた。オーバーヒートしているだけだ」
「腕は?」
「腕や指が痺れて感覚はないが、問題はない」
「これのどこが問題ないんだよ!」
思わず声を荒らげると、ソウは不思議そうに私を見た。
「本部の治療部門まで戻れば治療できる。死なない程度の重傷なら、どうにでもなる」
「死なない程度の重傷?」
「ああ」
「お前、本気で言ってんのか?」
「……何かおかしいか?」
私は思わず額を押さえた。
この男は、本当に何も分かっていない。
死ななければいい。
手足が動かなくなっても。
身体中が傷だらけになっても。
痛みに耐え続けることになっても。
命さえ残っていれば、それで問題ないと本気で思っている。
「いいか、ソウ」
私はソウの胸元を指で押した。
「死ななかったから大丈夫、じゃないんだよ」
「……?」
「傷ついたら、大丈夫じゃない。痛いなら、大丈夫じゃない。腕を失って、もう片方まで焼けてる奴が、平然と問題ないなんて言うな」
「だが、任務を続けるうえでは――」
「任務の話をしてるんじゃない!」
洞窟の中に、私の声が響いた。
詰め寄る私に圧倒されたのか、ソウは口を閉ざす。
「私は、お前の話をしてるんだ」
自分の声が、僅かに震えていることに気付いた。
「お前が傷ついたなら……私は嫌なんだよ」
「ソフィア……」
「謝れ」
「何?」
「心配させて悪かったって、ちゃんと謝れ」
ソウは困ったように眉を下げた。
この男が戦いの中で見せた、どんな表情よりも頼りなく見えた。
「……心配させて、悪かった」
「よし」
「これでいいのか?」
「今はな」
私はソウの胸を軽くこづいた。
「そうだ。報酬の話をしてなかったな」
「報酬?」
「忘れたとは言わせないぞ。作戦が成功したら、私の要求を1つ聞く約束だっただろう?」
ソウの表情が僅かに強張った。
黄金髑髏を前にした時よりも警戒しているように見える。
「……何を要求するつもりだ」
「お前、私を何だと思ってんだ?」
「俺の知る限り、最も予測のつかない女性だ」
「……まぁ、いい」
そう言って、私は人差し指と中指を立てた。
「私からの要求は2つだ」
「1つではなかったのか?」
「細かいことを気にする男は嫌われるぞ」
「そうか……」
「1つ目。任務へ行く前と、終わった後は、必ず私の店へ寄ること」
ソウが目を瞬かせる。
「2つ目。任務が終わったら、そこで見たものや、起きた出来事を私に話すこと」
「……それだけか?」
「それだけとは何だよ」
「もっと無理難題を要求されるものだと思っていた」
「……はぁ。まったく、さっきから私を何だと思っているんだよ」
そんな私の様子を見て、ソウは言葉を失っていた。
納得したのか、観念したのかは知らない。
やがて、小さく息を吐く。
「そんな簡単なことで、本当にいいのか?」
「お前はまず、そんな簡単なことから始めろ」
私はもう一度、ソウの胸を軽く叩いた。
「自分を大切にすることを覚えろ。帰る場所がある人間は、強くなるぞ」
ソウはしばらく黙っていた。
視線を落とし、私の言葉の意味を確かめるように考えている。
やがて、僅かに肩を竦めた。
「やれやれ、君という女性は……」
「何だよ」
「いや。何でもない」
その表情は、困っているようにも、嬉しそうにも見えた。
「分かった。約束しよう」
「絶対だからな」
「ああ」
私は、焼け焦げたソウの左手をそっと包んだ。
作戦開始前に拳をぶつけ合った時とは違う。
今度は、生き残った2人が交わす約束だった。
◇
簡単な応急処置を済ませると、ソウは洞窟に残っていた黄金髑髏の残骸から、幾つかの欠片を拾い上げた。
「何だ、それ?」
「サンプルだ」
ソウの掌に乗っていたのは、鈍く輝く黄金色の金属片だった。
「黄金髑髏を構成していた物質の一部だ。恐らく、オリハルコンと呼ばれていた金属に近い」
「オリハルコンって……あの伝説の?」
「伝説と呼ばれるようになっただけで、かつて実在していた可能性は高い」
「お前といると、昔話や神話が全部現実に思えてくるな」
「全てが事実とは限らない。だが、事実が形を変えて神話になった例は多い。それに……いや、今はやめておこう」
そう話しながら、ソウは金属片を専用の容器へ入れた。
洞窟の入口付近まで戻ると、ソウは奇妙な文字を書き始めた。
青白い光を放つ文字が、岩肌の上を這うように広がっていく。
「ルーン文字か?」
「ああ。簡易的な人払いの結界だ。後日、研究チームを派遣する。それまでは誰も入れないようにしておく」
「もう二度と入りたくないけどな」
「同感だ」
ソウは立ち上がろうとして、再び身体を揺らした。
「ほら」
私は、右義腕を失っている彼の右側へ回り込み、その身体を肩で支えた。
「自分で歩ける」
「今のお前に拒否権はない」
「……分かった」
ソウは渋々、私へ身体を預ける。
肩越しに伝わる身体は、思っていたよりも大きく、逞しかった。
その重さを感じながら歩くことが、なぜだか嫌ではなかった。
私が1分間踏みとどまったことも。
あの左腕を支えたことも。
こうして肩を貸していることも。
全部、無駄ではなかった。
守られていただけではない。
私も、この男を生かしたのだ。
◇
洞窟の外へ出ると、冷たい朝の空気が頬を撫でた。
気付けば夜は明け始め、遠くの空が淡い橙色に染まっている。
数時間前まで降っていただろう雨は止み、草木には無数の雫が残っていた。
朝日を受けた雫が、宝石のように輝いている。
そんな景色を眺めながら、私は大きく息を吸い込んだ。
「とんだ悪夢だったよ。もうこんなのは、懲り懲りだ」
そう――。
たった数時間の出来事だったはずなのに、まるで何日、何か月も経ったかのように感じられた。
一夏の冒険を、僅かな時間へ無理やり詰め込んだような濃密さだった。
すると、そんな私の気持ちを汲み取るように、ソウが口を開いた。
「……そうだな。それは、本来なら俺達の役目だ」
ソウが空を見上げる。
「俺達?」
「
その横顔には、戦いが終わった安堵よりも、これから先へ続く長い道のりが映っていた。
「それに、俺達には目的がある。何年かかっても、何十年かかってもいい。必ずやり遂げる」
ソウは、これまでと変わらない静かな声で続けた。
「それまでは死ねない。今までは……そう思っていた」
「今までは?」
ソウは朝焼けの向こう側ではなく、私を見た。
「でも、今は少し違う」
傷だらけの顔に、儚げな笑みが浮かぶ。
「帰らなきゃいけない場所が、できたからな」
胸の奥が、強く締めつけられた。
何かを言わなければと思うのに、言葉が出てこない。
「そ、そうかよ」
私はソウの視線から逃れるように、反対側へ顔を向けた。
この男は、時々ずるい。
何の前触れもなく、こちらの胸へ真っ直ぐ言葉を投げ込んでくる。
「あっ……そうだ」
私は、あることを思い出した。
「ソウ。お前に見せたいものがある」
「見せたいもの?」
「いいから、来い」
ソウの身体を支えながら、緩やかな丘を登っていく。
濡れた草に足を取られながら進み、やがて視界が開けた。
そこには、朝焼けに染まったBannau Brycheiniogの山々が広がっていた。
遠くまで連なる緑の稜線。
山間に漂う白い霧。
夜明けの光が、谷や湖の輪郭をゆっくりと浮かび上がらせていく。
世界が眠りから目を覚ましていくような光景だった。
「綺麗だろ?」
「ああ……」
ソウは目を細め、その景色を見つめていた。
「ここが、私の宝なんだ」
「宝?」
「私がロンドンじゃなく、ウェールズに住み続けている理由さ」
風が吹き、ソウへ返した赤い外套の裾が揺れる。
「幼い頃、家族と一緒にこの景色を見た。何でもない一日だったけど……私にとっては、ずっと忘れられない思い出なんだ」
今はもう、同じように家族と並んで見ることはできない。
それでも、この景色だけは変わらずここにある。
ソウは、景色ではなく私を見ていた。
「何だよ」
「いや……最初に君とここへ来た時のことを思い出していた」
「あの時?」
「君は、この景色を見ながら笑っていた。だが、どこか寂しそうにも見えた」
「そんな顔してたか?」
「ああ」
ソウは再び山々へ目を向ける。
「家族との思い出の場所だったんだな」
朝焼けの光が、その横顔を照らしていた。
「確かに素晴らしい場所だ。家族との思い出がある。それだけで、ここに住む価値はあるよ」
その言葉を聞いた瞬間、自然と笑みが零れてしまった。
嬉しいと思った。
この景色を、ソウが大切なものとして受け止めてくれたことが。
それを悟られたくなくて、私は煙草を探した。
「……あれ?」
いつも煙草を入れている左胸のポケットへ手を入れる。
だが、そこには何もなかった。
「確か、ここに入れたはずなんだけどな」
ミリタリージャケットやズボンのポケットを順番に探る。
やがて、お尻のポケットに硬い感触があった。
取り出してみると、そこには1枚の金貨があった。
「あ……」
怪物と対峙するきっかけとなった、あの金貨。
意識を失う直前、拾い上げたところまでは覚えている。
それが、どうしてこんな場所へ移動していたのか。
悩みながら手元の金貨を眺めていると、ソウが口を開いた。
「その金貨は、君の物だよ。ソフィア」
「いやいやいや! 駄目だろ!」
私は慌てて首を振った。
「これ、貴重な……その、
「必要ない」
「必要ないって……」
「人が物を選ぶんじゃない」
ソウは、私の掌にある金貨を見つめる。
「物が、主となる人間を選ぶんだ」
「物が……?」
「だから、君が選ばれたんだ。他でもない、ソフィアが」
その言葉には、どこか妙な説得力があった。
気のせいか、拾った時よりも金貨が輝いているように見える。
まるで、私を主として認めてくれているようだった。
「……物が、主を選ぶ、か」
思わず息を吐くように、自然と口から言葉が漏れた。
そう思うと、何だか嬉しくなった。
私は金貨を強く握り締める。
「なぁ、ソウ」
「何だ?」
「これを加工して、ヴィンテージ風のコインネックレスにするのも、悪くないと思わないか?」
ソウは一瞬驚いた顔をした後、柔らかく笑った。
「ああ。きっと君に似合う」
「そうか」
♦︎
その後、獣道を下り、車道へ戻る頃には、2人とも歩くのが限界に近づいていた。
さすがに、この状態でカーディフまで戻るのは無理だと判断し、私達は道端でヒッチハイクをすることにした。
何台かの車には、見事に無視された。
まぁ、当然だろう。
泥と傷にまみれた女と、ボロボロの赤い外套を身に纏った男。
誰だって怪しむ。
自分が運転手でも、きっと止まらない。
そんなことを考えながら道端の石を蹴っていると、運良くカーディフへ向かうという年配の夫婦が車を止めてくれた。
最初は酷く警戒されたが、山中で遭難したことと、私がカーディフでバーを営んでいることを説明した。
すると、共通の知人がいると分かり、渋々ながらも乗せてもらえることになった。
ソウを先に後部座席へ乗せ、それに続いて私も腰を下ろす。
年代物の座席シートが、私達の重さでゆっくりと沈んだ。
その柔らかさに懐かしさを覚える。
車の規則的な揺れも相まって、気付けば私の瞼は自然と落ちていた。
目を覚ます頃にはカーディフへ辿り着き、朝日はすっかり高く昇っていた。
「電波の届く場所はあるか?」
車を降りるなり、ソウが尋ねる。
「私の店なら、電話も通信回線もある。傷の手当てもできる」
「助かる」
私はソウを連れ、自分の店へ戻った。
店内は、出発した時のままだった。
グラスも。
酒瓶も。
椅子も。
何も変わっていない。
なのに、私自身はもう、出発した頃の私ではないような気がした。
ソウの腕や身体に巻いた包帯を交換すると、彼は左腕の腕輪へ向かって、聞き覚えのない言語を発した。
「……ありがとう。悪いが、少し席を外す」
「店は狭いけど、好きに使ってくれ」
私は汚れた店内を片付けながら、簡単に食べられる物を用意することにした。
その間、ソウは店の隅で誰かと話していた。
最初は落ち着いた声だった。
だが、次第に声が大きくなっていく。
「話が違うだろ!」
聞き耳を立てるつもりはなかった。
だが、生憎、私の店は狭い。
嫌でも会話が耳に入ってくる。
「“カイン”!! お前のミスのせいで、こちらは死にかけたんだぞ」
その声に驚き、料理をする手が一瞬止まった。
あのソウが、声を荒らげている。
初めて聞く、感情を剥き出しにした声だった。
どうやら、私と出会うより前から何か問題が起きていたらしい。
詳しい事情までは分からない。
だが、彼がこの場所へ辿り着いたこと自体、当初の予定とは違っていたのだろう。
驚きながらも再び手を動かしていると、ソウは気になる言葉を発した。
「
通信の向こうで、誰かが何かを説明している。
ソウは苛立ったように息を吐いた。
「とりあえず、明日にでも“ゲート”を開けてくれ。こちらで回収したサンプルも持ち帰る」
明日。
その言葉だけが、妙にはっきりと胸へ残った。
明日には、ソウはここを去る。
分かっていたはずだった。
この男は、ずっとウェールズに留まるような人間ではない。
それでも、実際に別れが迫っていると知ると、胸の奥がざわついた。
一瞬、心の中に暗いものが広がりかけた。
私はそれを振り払うように、自分の頬を叩く。
パンッ――。
店内に高い音が響いた。
「よし。湿っぽくなるな、私!」
ならば、私にできることは1つしかない。
私は棚の奥から、取っておきの酒を引っ張り出した。
生きて帰ってきたのだ。
盛大に祝わなければ損だ。
♢
「……これは何だ?」
通信を終えたソウが、目の前の光景を見て立ち尽くしていた。
テーブルの上には、2人では到底食べきれない量の料理。
焼いた肉。
煮込み料理。
パンとチーズ。
野菜の酢漬け。
そして、樽一つ分のビール。
「見て分からないのか? 帰還祝いだよ」
「2人分には見えないが……」
「男は細かいことを気にするな」
「……君は、後先を考えていないと、よく言われないか?」
「いいから座れ」
私はジョッキへビールを注ぎ、ソウの前に置いた。
「怪我人に、酒を勧めるのか?」
「死なない程度の重傷なら大丈夫なんだろ?」
「……根に持っているのか、ソフィア?」
「当たり前だ」
ソウは諦めた様子で、苦笑しながら椅子へ腰を下ろした。
私も向かい側へ座り、ジョッキを持ち上げる。
「黄金郷から生きて帰った、私達に」
「俺達に」
ジョッキを軽くぶつけ合う。
酒を飲み、料理を食べ、私達は夜が更けるまで語り合った。
もっとも、話していたのは、ほとんど私だった。
子供の頃のこと。
店を始めた理由。
今まで出会った変わった客。
失敗した料理や、喧嘩になった酒飲みの話。
ソウは私の話に静かに頷き、時折笑った。
自分のことについては、相変わらず多くを話さない。
それでも、不思議と気まずさはなかった。
むしろ、その静かな時間が心地良かった。
「次に来る時は、もっと面白い話を持ってこいよ」
「ああ……努力しよう」
「努力じゃなくて、約束だ」
「……ふっ。約束する」
鼻で笑うソウの余裕のある表情に、何だか苛立ちを覚える。
「本当か? ちゃんと帰ってこい」
酔いのせいだろうか。
そんな言葉が、自然と口から零れた。
ソウは少しだけ目を見開いた後、静かに頷いた。
「分かっている」
その返事を聞いたところで、私の記憶は途切れていた。
♦︎
鳥の囀りと、窓から差し込む朝の光で目を覚ました。
「……頭、痛い」
相変わらず、酷い二日酔いだった。
テーブルの上には、空になった皿とジョッキが散乱している。
私は椅子に座ったまま、いつの間にか眠っていたらしい。
一瞬、何でこんな所で寝ているんだ、私は――と、間の抜けたことを考える。
そこで、向かい側のテーブルだけが綺麗に片付いていることに違和感を覚えた。
その瞬間、昨日の盛大な帰還祝いを思い出す。
綺麗に片付けられた向かいの席には、まだ誰かの温もりだけが残っているように思えた。
「ソウ?」
思い出したように立ち上がる。
だが、返事はない。
狭い店内を見渡しても、ソウの姿はどこにもなかった。
胸の奥を、冷たいものが走った。
「まさか、あいつ……」
私は勢いよく立ち上がり、ふらつく身体のまま外へ飛び出した。
朝の通りには、まだ人の姿は少ない。
少し離れた場所に、荷物をまとめた男が立っていた。
今にも、どこかへ行こうとしている。
「ソウーーー!!」
大声で呼ぶと、ソウが振り返った。
「ソフィア」
私は息を切らしながら、その元へ駆け寄った。
「何、勝手に行こうとしてんだよ!」
「すまない。気持ちよさそうに寝ていたから、起こすのは悪いと思ってな」
ソウは困ったように頭を掻いた。
「そういうところだぞ、ソウ」
「何がだ?」
「お前って奴は、女心ってものを本当に分かってないんだな」
「女心……」
その言葉に、何か引っ掛かるものがあったのだろう。
沈黙するソウへ、私はため息を吐きながら言った。
「まったく……お前の周りには、そんなことも教えてくれる女が、今までいなかったのか?」
私は皮肉と揶揄いを込めて笑った。
この男は、この手の話題に弱い。
今までの反応から、それだけは分かっていた。
きっと困った顔をして、話を逸らす。
そう思っていた。
だが――。
ソウの口から返ってきたのは、私が予想していた言葉ではなかった。
「……ミナト」
「えっ……?」
「俺の本当の名前は、ミナトだ」
朝の風が、二人の間を通り抜けた。
「ミナト・サクラ」
ソウは真っ直ぐに私を見ていた。
「それが、俺の本当の名前だ。ソフィア」
その一言が、私の胸の奥を貫いた。
ソウ。
それはきっと、任務のための名前。
何者か分からない、正体不明の男の名前。
けれど、今は違う。
ミナト・サクラ。
家族から与えられた、大切な名前。
この男が、この世界に生きてきた証。
きっと――。
私の知らない世界で、数え切れないほどの物語を紡いできた名前。
お前が本当の名前を言わなかった理由を、私は知る術はない。
それでも、今は分かる。
誰にも踏み込ませなかった場所へ、私は初めて招き入れられたのだ。
「どうして……今、教えるんだよ」
「君には、俺の本当の名前を覚えていてほしいと思った」
胸の奥が熱くなる。
泣きそうになるのを堪えながら、私は笑った。
「だったら最初から言えよ、馬鹿」
「悪かった……」
「本当に、馬鹿な男だよ。お前は」
「ああ。最近、自覚し始めた」
その時だった。
鈍い地鳴りのような音が響いたかと思うと、ミナトの背後の空間に1本の大きな黒い線が走った。
まるで景色そのものが切り裂かれるように、線は上下へ広がっていく。
割れた空間の向こうには、光のない真っ暗な世界が広がっていた。
「これが……ゲート?」
「ああ。どうやら、お迎えの時間のようだ」
ミナトは振り向き、静かに暗闇へ向かって歩き始める。
「まっ……」
一瞬、待てよと言いそうになり、私は口を噤んだ。
呼び止めたい。
行くなと言いたい。
もっと話していたい。
そんな想いが頭の中を駆け巡った。
でも、それを言えないことを私は分かっていた。
この男には、果たさなければならない使命がある。
帰るべき世界がある。
私の言葉で、こいつの足を止めてはいけない。
口の中に苦い鉄の味が広がり、初めて自分が唇を噛み締めていたのだと気付いた。
その痛みのおかげで、少しだけ冷静になれた。
私がこいつへ送る言葉は、そんな言葉じゃない。
一度、深く息を吸う。
そして、別の言葉を精一杯叫んだ。
「ミナトーーー!」
ゲートまで、あと一歩。
そんな時、ミナトが振り返る。
「また来いよーーー!」
声が震える。
それでも、精一杯の力で叫んだ。
「絶対だからなーーー!!」
ミナトは僅かに笑った。
まるで、その表情を見られたくないかのように、再び暗闇へ向き直る。
そして、負傷した左手をぶっきらぼうに振りながら、ゲートの向こうへ歩いていった。
黒い亀裂が、ゆっくりと閉じていく。
やがてそこには、何事もなかったかのように、いつもの朝の景色だけが残った。
私はしばらく、その場から動けなかった。
気付けば、掌の中には黄金郷で拾った金貨がある。
私の胸の中には、あの男が残した本当の名前がある。
黄金郷事件は終わった。
またいつもの日常が始まる。
けれど、私達の約束は終わっていない。
この店は、あの男が帰ってくる場所になった。
だから私は、ここで待ち続ける。
次に店の扉が開く、その日まで。
ソウ。
いや――ミナト・サクラ。
その名を、私はきっと一生忘れない。
次の更新予定
毎日 21:00 予定は変更される可能性があります
『クロス・オーバー ――いつか君と重なる未来――』 © 一ノ瀬 玲央(Reo Ichinos @reoichinose500
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