第15話:また、この場所で

瞼の裏側で、青白い稲妻が何度も瞬いていた。


全身を貫いた衝撃。


鼓膜を震わせる轟音。


そして、ソウが最後に叫んだ言葉――。


“Κεραυνὸς Ὑπέρορμος《ケラウノス・オーバードライブ》”


意識を失ったはずなのに、その声だけは頭の奥にこびりついて離れなかった。





どのくらい時間が経ったのだろう――。


「――フィア」


誰かが私を呼んでいる。


「ソフィア」


低く、聞き慣れた声。


閉じていた瞼を持ち上げると、ぼやけた視界の向こうに男の顔が浮かんでいた。


「……ソウ?」


「ああ、俺だ」


身体を起こそうとした瞬間、頭の奥がぐらりと揺れた。


「動くな。まだ休んでいた方がいい」


「……ありがとう。でも、もう大丈夫だから」


上半身を起こすと、全身の骨が軋み、肺の奥まで痛むような感覚がした。


それでも何とか周囲を見渡し――私は言葉を失った。


洞窟の景色は、私が意識を失う前とは完全に変わっていた。


黄金の光で満たされていた空間は静まり返り、壁や地面の至るところが黒く焼け焦げている。


地面には大きな亀裂が走り、その中心から白い煙が立ち上っていた。


そして――。


あの巨大な黄金髑髏の姿はなかった。


代わりに、洞窟そのものを抉り取ったような巨大な穴が口を開け、まるで一本のトンネルのように彼方まで続いていた。


穿たれた穴の奥から、微かな光が差し込んでいる。


「倒した……のか?」


「ああ」


ソウが短く答える。


「君が1分間、あいつを引きつけてくれたからな」


地面の上には、黄金髑髏だったものの残骸が散らばっていた。


細かく砕けた骨。


黒く変色した金属片。


そして、鈍い光を放つ黄金色の欠片。


それを見た瞬間、身体から一気に力が抜けた。


「終わったな……」


「まだ無理をするな、ソフィア」


安堵と同時に、張り詰めていたものが崩れていく。


膝からも力が抜け、倒れかけた私の身体をソウが支えてくれた。


私はその場に座り込み、深く息を吐いた。


怖かった。


本当は、ずっと逃げ出したかった。


何度も死ぬと思った。


それでも――。


「1分……ちゃんと稼げたんだな」


「十分過ぎるほどにな」


ソウは静かに笑った。


「君が作ってくれた隙がなければ、雷霆遺環ディオス・ケラウノスは発動できなかった」


そう言って、ソウは自分の左腕へ視線を落とす。


「それに、君が俺の腕を支えてくれなければ、反動に耐えることもできなかっただろう」


「……じゃあ、私のおかげで勝てたってことか?」


「そういうことになるな」


「もっと堂々と言えよ。私がいなければ、倒せなかったって」


「君がいなければ、俺はここに立っていない」


あまりにも真っ直ぐな言葉だった。


からかってやるつもりだったのに、何も言い返せなくなる。


私は誤魔化すように鼻を鳴らした。


「最初から、そう素直に認めればいいんだよ」


「……そうだな」


そう言って立ち上がろうとしたソウの身体が、僅かに傾いた。


「おい!」


咄嗟に、今度は私がその身体を支える。


ソウの右義腕は失われたまま。


残された左腕も、指先から肩口にかけて酷く焼けていた。


ナノアーマの表面は黒く変色し、細い煙が立ち上っている。


「何だよ、それ……」


「ナノアーマの回路が焼き切れた。オーバーヒートしているだけだ」


「腕は?」


「腕や指が痺れて感覚はないが、問題はない」


「これのどこが問題ないんだよ!」


思わず声を荒らげると、ソウは不思議そうに私を見た。


「本部の治療部門まで戻れば治療できる。死なない程度の重傷なら、どうにでもなる」


「死なない程度の重傷?」


「ああ」


「お前、本気で言ってんのか?」


「……何かおかしいか?」


私は思わず額を押さえた。


この男は、本当に何も分かっていない。


死ななければいい。


手足が動かなくなっても。


身体中が傷だらけになっても。


痛みに耐え続けることになっても。


命さえ残っていれば、それで問題ないと本気で思っている。


「いいか、ソウ」


私はソウの胸元を指で押した。


「死ななかったから大丈夫、じゃないんだよ」


「……?」


「傷ついたら、大丈夫じゃない。痛いなら、大丈夫じゃない。腕を失って、もう片方まで焼けてる奴が、平然と問題ないなんて言うな」


「だが、任務を続けるうえでは――」


「任務の話をしてるんじゃない!」


洞窟の中に、私の声が響いた。


詰め寄る私に圧倒されたのか、ソウは口を閉ざす。


「私は、お前の話をしてるんだ」


自分の声が、僅かに震えていることに気付いた。


「お前が傷ついたなら……私は嫌なんだよ」


「ソフィア……」


「謝れ」


「何?」


「心配させて悪かったって、ちゃんと謝れ」


ソウは困ったように眉を下げた。


この男が戦いの中で見せた、どんな表情よりも頼りなく見えた。


「……心配させて、悪かった」


「よし」


「これでいいのか?」


「今はな」


私はソウの胸を軽くこづいた。


「そうだ。報酬の話をしてなかったな」


「報酬?」


「忘れたとは言わせないぞ。作戦が成功したら、私の要求を1つ聞く約束だっただろう?」


ソウの表情が僅かに強張った。


黄金髑髏を前にした時よりも警戒しているように見える。


「……何を要求するつもりだ」


「お前、私を何だと思ってんだ?」


「俺の知る限り、最も予測のつかない女性だ」


「……まぁ、いい」


そう言って、私は人差し指と中指を立てた。


「私からの要求は2つだ」


「1つではなかったのか?」


「細かいことを気にする男は嫌われるぞ」


「そうか……」


「1つ目。任務へ行く前と、終わった後は、必ず私の店へ寄ること」


ソウが目を瞬かせる。


「2つ目。任務が終わったら、そこで見たものや、起きた出来事を私に話すこと」


「……それだけか?」


「それだけとは何だよ」


「もっと無理難題を要求されるものだと思っていた」


「……はぁ。まったく、さっきから私を何だと思っているんだよ」


そんな私の様子を見て、ソウは言葉を失っていた。


納得したのか、観念したのかは知らない。


やがて、小さく息を吐く。


「そんな簡単なことで、本当にいいのか?」


「お前はまず、そんな簡単なことから始めろ」


私はもう一度、ソウの胸を軽く叩いた。


「自分を大切にすることを覚えろ。帰る場所がある人間は、強くなるぞ」


ソウはしばらく黙っていた。


視線を落とし、私の言葉の意味を確かめるように考えている。


やがて、僅かに肩を竦めた。


「やれやれ、君という女性は……」


「何だよ」


「いや。何でもない」


その表情は、困っているようにも、嬉しそうにも見えた。


「分かった。約束しよう」


「絶対だからな」


「ああ」


私は、焼け焦げたソウの左手をそっと包んだ。


作戦開始前に拳をぶつけ合った時とは違う。


今度は、生き残った2人が交わす約束だった。





簡単な応急処置を済ませると、ソウは洞窟に残っていた黄金髑髏の残骸から、幾つかの欠片を拾い上げた。


「何だ、それ?」


「サンプルだ」


ソウの掌に乗っていたのは、鈍く輝く黄金色の金属片だった。


「黄金髑髏を構成していた物質の一部だ。恐らく、オリハルコンと呼ばれていた金属に近い」


「オリハルコンって……あの伝説の?」


「伝説と呼ばれるようになっただけで、かつて実在していた可能性は高い」


「お前といると、昔話や神話が全部現実に思えてくるな」


「全てが事実とは限らない。だが、事実が形を変えて神話になった例は多い。それに……いや、今はやめておこう」


そう話しながら、ソウは金属片を専用の容器へ入れた。


洞窟の入口付近まで戻ると、ソウは奇妙な文字を書き始めた。


青白い光を放つ文字が、岩肌の上を這うように広がっていく。


「ルーン文字か?」


「ああ。簡易的な人払いの結界だ。後日、研究チームを派遣する。それまでは誰も入れないようにしておく」


「もう二度と入りたくないけどな」


「同感だ」


ソウは立ち上がろうとして、再び身体を揺らした。


「ほら」


私は、右義腕を失っている彼の右側へ回り込み、その身体を肩で支えた。


「自分で歩ける」


「今のお前に拒否権はない」


「……分かった」


ソウは渋々、私へ身体を預ける。


肩越しに伝わる身体は、思っていたよりも大きく、逞しかった。


その重さを感じながら歩くことが、なぜだか嫌ではなかった。


私が1分間踏みとどまったことも。


あの左腕を支えたことも。


こうして肩を貸していることも。


全部、無駄ではなかった。


守られていただけではない。


私も、この男を生かしたのだ。





洞窟の外へ出ると、冷たい朝の空気が頬を撫でた。


気付けば夜は明け始め、遠くの空が淡い橙色に染まっている。


数時間前まで降っていただろう雨は止み、草木には無数の雫が残っていた。


朝日を受けた雫が、宝石のように輝いている。


そんな景色を眺めながら、私は大きく息を吸い込んだ。


「とんだ悪夢だったよ。もうこんなのは、懲り懲りだ」


そう――。


たった数時間の出来事だったはずなのに、まるで何日、何か月も経ったかのように感じられた。


一夏の冒険を、僅かな時間へ無理やり詰め込んだような濃密さだった。


すると、そんな私の気持ちを汲み取るように、ソウが口を開いた。


「……そうだな。それは、本来なら俺達の役目だ」


ソウが空を見上げる。


「俺達?」


聖遺物オーパーツを回収し、人の世界へ還元する。世界がかつてのような豊かさを取り戻すために……な」


その横顔には、戦いが終わった安堵よりも、これから先へ続く長い道のりが映っていた。


「それに、俺達には目的がある。何年かかっても、何十年かかってもいい。必ずやり遂げる」


ソウは、これまでと変わらない静かな声で続けた。


「それまでは死ねない。今までは……そう思っていた」


「今までは?」


ソウは朝焼けの向こう側ではなく、私を見た。


「でも、今は少し違う」


傷だらけの顔に、儚げな笑みが浮かぶ。


「帰らなきゃいけない場所が、できたからな」


胸の奥が、強く締めつけられた。


何かを言わなければと思うのに、言葉が出てこない。


「そ、そうかよ」


私はソウの視線から逃れるように、反対側へ顔を向けた。


この男は、時々ずるい。


何の前触れもなく、こちらの胸へ真っ直ぐ言葉を投げ込んでくる。


「あっ……そうだ」


私は、あることを思い出した。


「ソウ。お前に見せたいものがある」


「見せたいもの?」


「いいから、来い」


ソウの身体を支えながら、緩やかな丘を登っていく。


濡れた草に足を取られながら進み、やがて視界が開けた。


そこには、朝焼けに染まったBannau Brycheiniogの山々が広がっていた。


遠くまで連なる緑の稜線。


山間に漂う白い霧。


夜明けの光が、谷や湖の輪郭をゆっくりと浮かび上がらせていく。


世界が眠りから目を覚ましていくような光景だった。


「綺麗だろ?」


「ああ……」


ソウは目を細め、その景色を見つめていた。


「ここが、私の宝なんだ」


「宝?」


「私がロンドンじゃなく、ウェールズに住み続けている理由さ」


風が吹き、ソウへ返した赤い外套の裾が揺れる。


「幼い頃、家族と一緒にこの景色を見た。何でもない一日だったけど……私にとっては、ずっと忘れられない思い出なんだ」


今はもう、同じように家族と並んで見ることはできない。


それでも、この景色だけは変わらずここにある。


ソウは、景色ではなく私を見ていた。


「何だよ」


「いや……最初に君とここへ来た時のことを思い出していた」


「あの時?」


「君は、この景色を見ながら笑っていた。だが、どこか寂しそうにも見えた」


「そんな顔してたか?」


「ああ」


ソウは再び山々へ目を向ける。


「家族との思い出の場所だったんだな」


朝焼けの光が、その横顔を照らしていた。


「確かに素晴らしい場所だ。家族との思い出がある。それだけで、ここに住む価値はあるよ」


その言葉を聞いた瞬間、自然と笑みが零れてしまった。


嬉しいと思った。


この景色を、ソウが大切なものとして受け止めてくれたことが。


それを悟られたくなくて、私は煙草を探した。


「……あれ?」


いつも煙草を入れている左胸のポケットへ手を入れる。


だが、そこには何もなかった。


「確か、ここに入れたはずなんだけどな」


ミリタリージャケットやズボンのポケットを順番に探る。


やがて、お尻のポケットに硬い感触があった。


取り出してみると、そこには1枚の金貨があった。


「あ……」


怪物と対峙するきっかけとなった、あの金貨。


意識を失う直前、拾い上げたところまでは覚えている。


それが、どうしてこんな場所へ移動していたのか。


悩みながら手元の金貨を眺めていると、ソウが口を開いた。


「その金貨は、君の物だよ。ソフィア」


「いやいやいや! 駄目だろ!」


私は慌てて首を振った。


「これ、貴重な……その、聖遺物オーパーツなんだろ? お前達が回収しなくていいのか?」


「必要ない」


「必要ないって……」


「人が物を選ぶんじゃない」


ソウは、私の掌にある金貨を見つめる。


「物が、主となる人間を選ぶんだ」


「物が……?」


「だから、君が選ばれたんだ。他でもない、ソフィアが」


その言葉には、どこか妙な説得力があった。


気のせいか、拾った時よりも金貨が輝いているように見える。


まるで、私を主として認めてくれているようだった。


「……物が、主を選ぶ、か」


思わず息を吐くように、自然と口から言葉が漏れた。


そう思うと、何だか嬉しくなった。


私は金貨を強く握り締める。


「なぁ、ソウ」


「何だ?」


「これを加工して、ヴィンテージ風のコインネックレスにするのも、悪くないと思わないか?」


ソウは一瞬驚いた顔をした後、柔らかく笑った。


「ああ。きっと君に似合う」


「そうか」





♦︎





その後、獣道を下り、車道へ戻る頃には、2人とも歩くのが限界に近づいていた。


さすがに、この状態でカーディフまで戻るのは無理だと判断し、私達は道端でヒッチハイクをすることにした。


何台かの車には、見事に無視された。


まぁ、当然だろう。


泥と傷にまみれた女と、ボロボロの赤い外套を身に纏った男。


誰だって怪しむ。


自分が運転手でも、きっと止まらない。


そんなことを考えながら道端の石を蹴っていると、運良くカーディフへ向かうという年配の夫婦が車を止めてくれた。


最初は酷く警戒されたが、山中で遭難したことと、私がカーディフでバーを営んでいることを説明した。


すると、共通の知人がいると分かり、渋々ながらも乗せてもらえることになった。


ソウを先に後部座席へ乗せ、それに続いて私も腰を下ろす。


年代物の座席シートが、私達の重さでゆっくりと沈んだ。


その柔らかさに懐かしさを覚える。


車の規則的な揺れも相まって、気付けば私の瞼は自然と落ちていた。


目を覚ます頃にはカーディフへ辿り着き、朝日はすっかり高く昇っていた。


「電波の届く場所はあるか?」


車を降りるなり、ソウが尋ねる。


「私の店なら、電話も通信回線もある。傷の手当てもできる」


「助かる」


私はソウを連れ、自分の店へ戻った。


店内は、出発した時のままだった。


グラスも。


酒瓶も。


椅子も。


何も変わっていない。


なのに、私自身はもう、出発した頃の私ではないような気がした。


ソウの腕や身体に巻いた包帯を交換すると、彼は左腕の腕輪へ向かって、聞き覚えのない言語を発した。


「……ありがとう。悪いが、少し席を外す」


「店は狭いけど、好きに使ってくれ」


私は汚れた店内を片付けながら、簡単に食べられる物を用意することにした。


その間、ソウは店の隅で誰かと話していた。


最初は落ち着いた声だった。


だが、次第に声が大きくなっていく。


「話が違うだろ!」


聞き耳を立てるつもりはなかった。


だが、生憎、私の店は狭い。


嫌でも会話が耳に入ってくる。


「“カイン”!! お前のミスのせいで、こちらは死にかけたんだぞ」


その声に驚き、料理をする手が一瞬止まった。


あのソウが、声を荒らげている。


初めて聞く、感情を剥き出しにした声だった。


どうやら、私と出会うより前から何か問題が起きていたらしい。


詳しい事情までは分からない。


だが、彼がこの場所へ辿り着いたこと自体、当初の予定とは違っていたのだろう。


驚きながらも再び手を動かしていると、ソウは気になる言葉を発した。


聖遺物オーパーツも門番もいた。だが、あそこに“アヴァロン”に関する手がかりはなかった……」


通信の向こうで、誰かが何かを説明している。


ソウは苛立ったように息を吐いた。


「とりあえず、明日にでも“ゲート”を開けてくれ。こちらで回収したサンプルも持ち帰る」


明日。


その言葉だけが、妙にはっきりと胸へ残った。


明日には、ソウはここを去る。


分かっていたはずだった。


この男は、ずっとウェールズに留まるような人間ではない。


それでも、実際に別れが迫っていると知ると、胸の奥がざわついた。


一瞬、心の中に暗いものが広がりかけた。


私はそれを振り払うように、自分の頬を叩く。


パンッ――。


店内に高い音が響いた。


「よし。湿っぽくなるな、私!」


ならば、私にできることは1つしかない。


私は棚の奥から、取っておきの酒を引っ張り出した。


生きて帰ってきたのだ。


盛大に祝わなければ損だ。






「……これは何だ?」


通信を終えたソウが、目の前の光景を見て立ち尽くしていた。


テーブルの上には、2人では到底食べきれない量の料理。


焼いた肉。


煮込み料理。


パンとチーズ。


野菜の酢漬け。


そして、樽一つ分のビール。


「見て分からないのか? 帰還祝いだよ」


「2人分には見えないが……」


「男は細かいことを気にするな」


「……君は、後先を考えていないと、よく言われないか?」


「いいから座れ」


私はジョッキへビールを注ぎ、ソウの前に置いた。


「怪我人に、酒を勧めるのか?」


「死なない程度の重傷なら大丈夫なんだろ?」


「……根に持っているのか、ソフィア?」


「当たり前だ」


ソウは諦めた様子で、苦笑しながら椅子へ腰を下ろした。


私も向かい側へ座り、ジョッキを持ち上げる。


「黄金郷から生きて帰った、私達に」


「俺達に」


ジョッキを軽くぶつけ合う。


酒を飲み、料理を食べ、私達は夜が更けるまで語り合った。


もっとも、話していたのは、ほとんど私だった。


子供の頃のこと。


店を始めた理由。


今まで出会った変わった客。


失敗した料理や、喧嘩になった酒飲みの話。


ソウは私の話に静かに頷き、時折笑った。


自分のことについては、相変わらず多くを話さない。


それでも、不思議と気まずさはなかった。


むしろ、その静かな時間が心地良かった。


「次に来る時は、もっと面白い話を持ってこいよ」


「ああ……努力しよう」


「努力じゃなくて、約束だ」


「……ふっ。約束する」


鼻で笑うソウの余裕のある表情に、何だか苛立ちを覚える。


「本当か? ちゃんと帰ってこい」


酔いのせいだろうか。


そんな言葉が、自然と口から零れた。


ソウは少しだけ目を見開いた後、静かに頷いた。


「分かっている」


その返事を聞いたところで、私の記憶は途切れていた。




♦︎




鳥の囀りと、窓から差し込む朝の光で目を覚ました。


「……頭、痛い」


相変わらず、酷い二日酔いだった。


テーブルの上には、空になった皿とジョッキが散乱している。


私は椅子に座ったまま、いつの間にか眠っていたらしい。


一瞬、何でこんな所で寝ているんだ、私は――と、間の抜けたことを考える。


そこで、向かい側のテーブルだけが綺麗に片付いていることに違和感を覚えた。


その瞬間、昨日の盛大な帰還祝いを思い出す。


綺麗に片付けられた向かいの席には、まだ誰かの温もりだけが残っているように思えた。


「ソウ?」


思い出したように立ち上がる。


だが、返事はない。


狭い店内を見渡しても、ソウの姿はどこにもなかった。


胸の奥を、冷たいものが走った。


「まさか、あいつ……」


私は勢いよく立ち上がり、ふらつく身体のまま外へ飛び出した。


朝の通りには、まだ人の姿は少ない。


少し離れた場所に、荷物をまとめた男が立っていた。


今にも、どこかへ行こうとしている。


「ソウーーー!!」


大声で呼ぶと、ソウが振り返った。


「ソフィア」


私は息を切らしながら、その元へ駆け寄った。


「何、勝手に行こうとしてんだよ!」


「すまない。気持ちよさそうに寝ていたから、起こすのは悪いと思ってな」


ソウは困ったように頭を掻いた。


「そういうところだぞ、ソウ」


「何がだ?」


「お前って奴は、女心ってものを本当に分かってないんだな」


「女心……」


その言葉に、何か引っ掛かるものがあったのだろう。


沈黙するソウへ、私はため息を吐きながら言った。


「まったく……お前の周りには、そんなことも教えてくれる女が、今までいなかったのか?」


私は皮肉と揶揄いを込めて笑った。


この男は、この手の話題に弱い。


今までの反応から、それだけは分かっていた。


きっと困った顔をして、話を逸らす。


そう思っていた。


だが――。


ソウの口から返ってきたのは、私が予想していた言葉ではなかった。


「……ミナト」


「えっ……?」


「俺の本当の名前は、ミナトだ」


朝の風が、二人の間を通り抜けた。


「ミナト・サクラ」


ソウは真っ直ぐに私を見ていた。


「それが、俺の本当の名前だ。ソフィア」


その一言が、私の胸の奥を貫いた。


ソウ。


それはきっと、任務のための名前。


何者か分からない、正体不明の男の名前。


けれど、今は違う。


ミナト・サクラ。


家族から与えられた、大切な名前。


この男が、この世界に生きてきた証。


きっと――。


私の知らない世界で、数え切れないほどの物語を紡いできた名前。


お前が本当の名前を言わなかった理由を、私は知る術はない。


それでも、今は分かる。


誰にも踏み込ませなかった場所へ、私は初めて招き入れられたのだ。


「どうして……今、教えるんだよ」


「君には、俺の本当の名前を覚えていてほしいと思った」


胸の奥が熱くなる。


泣きそうになるのを堪えながら、私は笑った。


「だったら最初から言えよ、馬鹿」


「悪かった……」


「本当に、馬鹿な男だよ。お前は」


「ああ。最近、自覚し始めた」


その時だった。


鈍い地鳴りのような音が響いたかと思うと、ミナトの背後の空間に1本の大きな黒い線が走った。


まるで景色そのものが切り裂かれるように、線は上下へ広がっていく。


割れた空間の向こうには、光のない真っ暗な世界が広がっていた。


「これが……ゲート?」


「ああ。どうやら、お迎えの時間のようだ」


ミナトは振り向き、静かに暗闇へ向かって歩き始める。


「まっ……」


一瞬、待てよと言いそうになり、私は口を噤んだ。


呼び止めたい。


行くなと言いたい。


もっと話していたい。


そんな想いが頭の中を駆け巡った。


でも、それを言えないことを私は分かっていた。


この男には、果たさなければならない使命がある。


帰るべき世界がある。


私の言葉で、こいつの足を止めてはいけない。


口の中に苦い鉄の味が広がり、初めて自分が唇を噛み締めていたのだと気付いた。


その痛みのおかげで、少しだけ冷静になれた。


私がこいつへ送る言葉は、そんな言葉じゃない。


一度、深く息を吸う。


そして、別の言葉を精一杯叫んだ。


「ミナトーーー!」


ゲートまで、あと一歩。


そんな時、ミナトが振り返る。


「また来いよーーー!」


声が震える。


それでも、精一杯の力で叫んだ。


「絶対だからなーーー!!」


ミナトは僅かに笑った。


まるで、その表情を見られたくないかのように、再び暗闇へ向き直る。


そして、負傷した左手をぶっきらぼうに振りながら、ゲートの向こうへ歩いていった。


黒い亀裂が、ゆっくりと閉じていく。


やがてそこには、何事もなかったかのように、いつもの朝の景色だけが残った。


私はしばらく、その場から動けなかった。


気付けば、掌の中には黄金郷で拾った金貨がある。


私の胸の中には、あの男が残した本当の名前がある。


黄金郷事件は終わった。


またいつもの日常が始まる。


けれど、私達の約束は終わっていない。


この店は、あの男が帰ってくる場所になった。


だから私は、ここで待ち続ける。


次に店の扉が開く、その日まで。


ソウ。


いや――ミナト・サクラ。


その名を、私はきっと一生忘れない。

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『クロス・オーバー ――いつか君と重なる未来――』 © 一ノ瀬 玲央(Reo Ichinos @reoichinose500

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