後
それは雲の中からではなく、山頂から火砕流が滑り落ちるようにして雪渓を乗り越え、彼らの前に現れた。
「矢を放て」
弓矢が雨のように化け物に向けて放たれる。『手』の巨体を前に震え上がる兵士を叱咤して討伐隊の隊長が吼えた。
「罠に誘い込め」
「こいつには眼玉も耳もない」
蒼褪めた顔をして兵士が呻いた。
「それなのにまるで俺たちが見えているみたいだ」
餌食になった兵士が爆走する『手』の中に消え失せた。
「散開ッ」
隊長の命令で兵士が散る。濃灰色の『手』は指を伸ばして前進してくる。牙のある口は掌側にあり、近づくには五本の指をかいくぐらなければならない。
積雪を散らしながら雪崩のごとくに襲ってくる『手』の指は、以前みた時のように確かに一本だけ短かった。シグストは頭上に剣を掲げるようにして、下から潜り込んで斬り落としたと云っていた。
『手』の動きに呼応して辺りは吹雪になっていた。その雪の流れに切れ目が出来た。
キリアは今日まで大切に持っていた武器を懐から取り出した。すると背後からシグストの腕が伸びてきた。
「やはり火薬を隠し持っていたか」
咄嗟にキリアは腕を背中に回した。
「お前がやけに落ち着いているので、きっと何か隠しているのではないかと睨んでいた。お前の邑が王命で密かに火薬を作っていたことは承知だ」
「もしそうなら、どうして旅の間に調べようとしなかったの。いくらでもその機会はあったでしょう」
「必要となるのは今この場でしかないからだ。それを渡せ。俺は赤鎧のシグストだ。俺がそれを使う」
「そっちに行くぞ」
隊長が叫んだ。シグストはキリアを横抱きにして雪面に転がった。頭上を『手』の指が掠める。巨大な『手』が動くたびに雪嵐が起こり、視界は閉ざされた。
「『手』の背後に回ろう、シグストさん」
討伐隊の放つ槍や矢が当たらぬように身を低くしてキリアはシグストを誘った。
「前からよりも後ろからの方が、あいつの口に近づける」
何かが砕ける音がした。『手』が鉄槍を噛み砕いているのだ。
「あの牙をどうやったら奪い取れる。口に近づいたところで噛みつかれたら終わりだ」
「出来る」
キリアは足許を見ていた。それからシグストを仰いだ。冷気によって呼吸するたびに肺が痛んだ。
「この氷の裂目に身を隠すわ。『手』を連れて来て」
「落ちたらお前が死ぬぞ」
「俺がキリアさんを護ります」
小柄な兵士が雪を蹴散らして滑り込んできた。手早く近くの岩に綱を結び付け、その綱で自分とキリアを繋ぐ。
「割れ目の下に岩棚の出っ張りが見えます。あそこに立てば姿がちょうど隠れます」
「『手』を連れて来て、シグストさん。手を振ったらそれが合図よ」
シグストが止める前に、キリアは火打ち石を叩いて火花を木切れに移すと、氷の割目に降りていた。
頭上を爆音と爆風が通り過ぎた。シグストが氷の裂け目を跳び越えるのを待ち、シグストを追って真上を通過する『手』に向けてキリアは火のついた火薬玉を投げつけた。それは化け物の口許で爆発した。
「牙だ」
裂目に落ちてきた牙の破片を咄嗟に兵士が掴んだ。破片とはいえ、幼児の背丈ほどはあった。
「取ったぞ。よしっ」
成功したのだ。兵士はキリアに笑顔を向けた。
「ご苦労だったな、キリア」
返事をする暇もなかった。二人を繋いでいた命綱を兵士が切った。兵士に突き飛ばされたキリアは、氷に覆われた裂目のさらに深みへと落ちていった。
兵士はそれを見届けると、上の様子をうかがい、綱を使って自力で表層に這い上がった。
「大変だ」
慌てふためいた声を上げて、牙を背負った兵士は雪の上に転がった。辺りにはまだ火薬の匂いが立ち込めており、そして傷ついた『手』は濁った色の体液を散らしながら何処かへと走り去っていた。
「大変だ、シグスト殿。キリアさんが深みに落ちた」
「なんだと」
遠くから駈け戻ってきたシグストは、抜刀した討伐隊に取り囲まれた。
「……何の真似だ」
「ここで死んでもらおう、シグスト」
討伐隊の隊長がシグストを睨みつけた。
「牙を獲った以上、お前には用はない。お前の遺体は小娘の死体と共に氷の縦穴に棄ててやる。そうなれば永遠に見つからぬ」
剣を構えたシグストは、「キリア!」と大声で呼んだ。
「生きていたら返事をしろ、キリア」
「無駄だ。氷の割目のはるか下に落ちた」
牙を背負った兵士が嗤った。
「お前がこの雪山を目指していることを知った時から、我らは疑っていたのだ。あの噂は本当だったのだな」
「何の話だ」
「わが国の世継の父親は、王妃の国許の近衛兵ということだ」
シグストは笑い出した。
「莫迦な」
「『手』の牙は獲った。王は幼い王子を溺愛されておられる。このまま王が何も云わぬおつもりならば我々も事を表沙汰にする気はない。王の為に我らは生きる。だが、お前はここで王妃の不貞の秘密と共に死んでもらうぞ、シグスト」
隊長は最後まで云えなかった。背後からむくむくと雪山が倍にも盛り上がり、そしてそれは五つの分岐を持つ巨大な雲となり、牙の折れた口となり、そこにいた兵士たちを掘削器のように呑み込んでいったからだ。その前にシグストはまだ岩に巻きついたままになっていた綱をひっ掴み、氷の裂目に身を躍らせていた。
シグストは落ちた。壁面を覆う氷で顎をまず打った。出っ張りに次々とぶつかりながら壁に片脚をかけて辛くも落下を止めた時には、上で『手』に襲われている兵士の絶叫は既に絶えていた。
雪の塊りが礫となってしばらく降り注いだ。井戸の中のようなそこで、しばらくシグストは周囲の状態が落ち着くのを待った。
「キリア」
暗黒に吸い込まれるようにしてその声は鈍く木霊した。
「返事をしろ、キリア」
怪我をして動けないのかもしれない。この先は狭く、シグストの体躯では降りて行けそうにない。シグストは綱の残りを下に向けて垂らしていった。
「キリア。これに掴まれ」
暗闇の中でキリアは薄眼を開いた。何も見えなかった。身体が氷漬けになったように冷えきっていた。
時折ぱらぱらと何かが降ってきた。これは、邑の大樹の木の実だ。カイと集めて拾った。夏風の吹くみどり鮮やかな山々。春の花が咲いている。
キリア。
氷壁から剥離した氷片がきらきらと闇に降ってくる。全身が鉛のように重かった。このまま眠ってしまいそうだ。
キリア。生きろ。
生きる目的はもう残っていない。あれは仲良しのカイの声。もう一度ききたい。わたしを呼ぶ彼の声。
キリア、返事をしろ。
シグストの手がキリアの手脚を懸命にさすっている。溶けた氷がキリアの睫毛から眼尻を伝って零れ落ちた。シグストが怒鳴りつける。
「死ぬな」
ここは馬車の中だ。討伐隊はどうしたのだろう。牙をはやく隣国のお城に運んで。
男の人は大きくて温かい。だから眠たくなってしまう。どくどくと鳴っているのは心臓の音。シグストさんのところにあるのに、わたしの胸の中にあるみたい。
白い雲が流れていた。
竈の上で夕食が出来上がると、キリアは外に出た。風にそよぐ野原の上に夕暮れの月が出ている。
シグストが云うには、垂らした綱に手応えがあり、下を見ると綱を掴んでいる赤い手甲が見えたのだそうだ。
氷壁を登って外に出たシグストが岩を利用しながら引っ張り上げてみると、身体に綱が絡まった状態のキリアが上がってきた。
キリアにはまるでその記憶がない。綱を巻き付けた憶えもない。しかしシグストが云うのだからそうなのだろう。まるで誰かが手伝ってくれたようだったと。
牙の欠片と、貴石の原石はいいお金になった。
底に落ちた時にキリアは腕と両脚の骨を折っていた。完治するまで、それからも、シグストは郷里を失って独りになったキリアと一緒に暮らしてくれた。
松葉杖をついて歩く練習を始めた頃、再士官の話を何度も断り続けているのはわたしのせいなのかとキリアは訊いてみた。シグストはそれには応えず、黙ってキリアを支えた。
森の外れに定住して三年が経った先日、ひと目を避けた一行が家を訪ねて来た。
「王の格別のご配慮により」
遠方からやって来た彼らは、隣国の王妃が第三王子を産み落としたあと産褥熱で死んだことを、王妃の短い遺言と共にシグストに伝えた。
一行の中には目立たぬ装いをした美しい少年がいて、何も云わずただじっとシグストを見ていた。少年の眸は湖の色をしていた。
柔らかい風がキリアの頬を撫ぜた。馬に乗ったシグストの姿が見えてきた。町に毛皮を売りに行った帰り、森で狩りをしてきたのだ。鞍の両側に獲物を提げている。まだ距離があるが、彼の姿は明るい夕陽に照らされていて、よく見える。
いつの日かまた、あの空から『手』がやって来るのかもしれない。しかしそれを懼れて暮らすよりは、他のことをキリアは考えていたい。カイに救われた命を抱えたまま、互いに哀しみで半分埋まった心であっても。
それにしても、いつ気づいてくれるのかしら。
キリアは吐息をついた。
どうやら、わざと知らない顔を決め込んでいるようだけれど。
美しい夕焼け空の下、丈のある紫の花が一面に揺れている。その花びらを少し摘んで、滲み出た色をキリアは小指にとった。色を唇に移す。そして待つ。
キリアは片腕を高く上げて、シグストに向かって手を振った。
[了]
エデンズイ 朝吹 @asabuki
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