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カクヨムコン参加作品
◆現代ドラマ「ひばりの棘」
https://kakuyomu.jp/works/822139836298198314◆SF「リチャードX世」
https://kakuyomu.jp/works/822139839803115722◆エッセイ「左のつぶて」
https://kakuyomu.jp/works/822139839413306924-------------------------------------
明けましておめでとうございます。
おせちをつまみに、恒例のニューイヤー駅伝で年明けです。
吉田響選手のリアルチート漫画のような大爆走が今年もみれました。超一流選手が本気の疾走をしているところへはるか後方から現れて、22人も前の人を抜き去るってまったくもって異次元です。
前世はサラブレッドだったんじゃないでしょうか、あの方。
去年、神奈川の高校駅伝の大会でコース誘導ミスによる失格事件がありました(後に一校だけ救済)
「誘導員のせいにするな。自分が走るコースくらい選手が憶えておけ」
というのは、間違いで、全力疾走している選手は周囲を確認しながら走るような酸素の余裕は後半になるにつれ脳内にまったく無いそうです。走ったことがある人ほどそう云います。
明けましての字は、「開けまして」でもいいような気がしますよね。
「新年、開けましておめでとうございます」
新年って「信念」と同じ読み方をするんですね。
時流とはいえ、値上がりによって年賀状がますます絶滅危惧種化しており、仕方がないとはいえ、元旦といえば分厚い年賀状の束が届く時代を知っている身には少々寂しいことです。
切手を貼って出す手紙がメールに取ってかわり、どんどん取り扱いが減っているのはご存じのとおりですが、どこで読んだのかさっぱり想い出せないながらも父親が郵便局員だったという方の投稿で、
「民営化する前の郵便局が好きだった」「郵便局が村人の人生と生活に密着していた」
人の手を通して届けられる手紙や小包。あれが独居老人の安否確認にもなっていた。
そんな想い出話。
あれ、素敵な話だったんですよね。
どこで見かけたのかも、もう憶えていませんが。
どんな離島にも山奥にも、同じ料金で郵便を届けてくれるなんて、なんていい制度なのでしょう。
今年は大幅にペースダウンをしながら、今まで以上に自分の好きなものを書いていく所存です。
賞とはますます遠くなるでしょうが、たとえ読者がゼロになっても、好きなものを書いていくでしょう。
わたしはただの素人ですが、書き上げた時のあの満足感は知っております。
門前払いされるばかりでまるで繋がりませんが、もし繋がったとして、それが「好きなものを書いてはいけない」にコネクトしていくのであれば、書くことを止めてしまうでしょう。
うつむいて、暗い顔で。
書きたくもないものを他人の指示命令どおりに人格否定能力否定をされながら、ああしろこうしろと威張り散らされながら書く。
そんなことは、即時対応してくれる合理的なAIに任せればいいことです。
それは、「読者のことを考えず、自分のことだけを考えて書くなんて自己中だ。書く資格がない」という批難にはあたらない。
書き手は誰もが自己中です。
優等生ならば、「読者のために書いています」と回答するのでありましょう。
これがいちばんウケがいいですから。
そして書き手の側も、もし読んでくれる人がいるのならば、「作品が好きだと云ってくれる人のために書く」「続きを待ってくれる人のために書く」読者に背中を押してもらって自然とこうなるものです。
でもそのウケがいいことを、たいした考えもなくそのまま口にしているだけというのは、
「ウケのいいことを云っておけば人気が出る」
アイドル的な外面重要視の方なのか、または心底、
「他人に幅ひろく受け入れてもらえるヒット作が書きたい」
最初から目的がここにある方で、流行をキャッチしながら読者の希望をどんどん取り入れて変更していくことに無理がないタイプの、生まれながらにプロ志向の書き手さんです。
昨年、ホラー界を席巻したモキュメンタリーがそうですし、今であれば、「最先端で大流行のAIを使用して書く」がそれです。
ぺったんぺったんお餅つき。
AIに生成させたことをぺたぺたと貼り付ければ、「さすがは合理的で最先端だ」とひじょうにウケがいい。
まさに機械のように正確に、すべての人間をその説明で納得させて、全員に同じ感想を持たせるのが最も優れた小説であるという考え方ならば、AIに生成させたことを貼り付けていくのが合理的で最適な書き方です。
商業ならば、その多くが売り出すものの方向性とカラーがすでに固定で決まっているので、応募する人はそれに合わせなければなりません。
「他人に受け入れてもらえるもの」と「賞」がリンクしていて、作風とジャンルをそれに合わせて寄せて書く。
これは当たり前のことですが、やはり、もともと偶然にもそれに近い方がやるべきですよね。
無理矢理あわせても、それでたとえ受賞したとしても、その後が続かないので。
カクヨム開催のコンテストは一番最初に出した、
「貴方のもとに嫁ぐとき」
https://kakuyomu.jp/works/16817330661181819390これが掠りもしなかった時に、
「これが通らないのならば、このあと何を書いてもわたしの作品は通らない」
「下読みさんがチラ見だけですべて落とすだろう」
そう思ったのですが、同じその時は、誰からも好感度高く愛される作風の九月ソナタさんであっても一次すら通らなくて、
「ソナタさんですら予選を通らないのならば、ますます絶対に通らないだろう」
と或る意味、達観できまして、その後は書くきっかけとして去年までは応募しておりました。
(その後、九月ソナタさんはめでたく中の人の眼に留まりましたので実力者であるソナタさんのあの時のあの予選落ちは、ますます不可解なものでした)
基礎の基礎を完璧におさえて、計画的に合理的に、「第三者の客観的意見、アドバイス」どおりの完璧な手順を踏んで、流行のAIも併用し、機械的に生み出される、完全無欠であるべき小説。
そんな完全無欠な小説が流行の最先端をきっても、「書きたいものを好き勝手に書いて」なおかつ「幸運にも大ヒット」これが消えることはないでしょうね。
「チ。」であれ鬼滅であれ進撃であれ、そのどれもが、すぐに打ち切りになるだろう、と見做されていた新人の作品だったからです。
プロ中のプロ集団である編集部が入念に作品選考と打ちあわせを重ねて、「これで完璧だ」と世に送り出した完全無欠な作品であっても、そのほとんどは売れません。
それが何故なのか。
そこにはやはり、宝くじ的なものが作用しているとしか思えません。
ビートたけしさんも云っております。
「努力とは、宝くじを毎年買うようなもの」と。
努力しなければ成功もありませんが、努力したからといって当たるとも限らない。
これは成功した人だからこそ、心の底から「結果は宝くじだ」と云えるのです。
客観的な第三者の意見とは、その中身といえば、『第三者のやり方と単なる好みにすぎないもの』であることがほとんどです。
たとえ真にその人にとっても最もよい助言が出来る人であっても、それに従っても、従わなくても、成功は確約されていないのです。
もしそれが100%の成功を確約するものならば、アドバイスをする本人がとっくの昔に大成功をおさめて納税番付に載る売れっ子になっており、他人に口出しする閑などないでしょう。
書籍化した作品について一つ思うのは、出版時だけちょっと宣伝して終わりでは、どんな本でも誰の眼にも留まらず、ほとんど売れないだろうなということです。
「近畿地方」のように一般人の口コミによって火がつく、「まさにこれを待っていた!」現象もあるにはありますが、出したらそれっきりではなく、売り方を考えてあげて欲しいですね。
「営業も自力でしろ」というのも、まあ分かるのですが、作品を書くことに全力投球している人には、マラソンではありませんが、他のことに出力する余裕などそんなにないですから。