episode.4〈空〉
それから、長い月日が過ぎた。寺の生活にも慣れ、日本の食事にも慣れた。経を読むだけでなく、日本語も学び、若僧侶とも会話ができるようになった。
そんなある日、窓から差す日の光を避けながらクリストファーは廊下を歩いていた。両手には重ねた
クリストファーはしゃがみこみ、何気なく手を伸ばして経文を拾う。
まったくの無意識だった。その手は窓から差す日光の中にあった。気づいたときに、クリストファーは身の毛もよだつ怖気を感じて、思わず手を引っ込めた。もう少しで手が灰になるところだった。
本当か。
仮にそうだとしたら、たとえ一瞬だったとしても、手には日光によるダメージがあったはず。手を見る。無意識的に触れた日光には、自らを
クリストファーは再び、ゆっくりと差す日の中に手を伸ばした。
恐る恐る。だが、それでは駄目だと気付いた。恐れに従うな。それは人間たちが吸血鬼の弱点として語り継いできたただの物語だ。
経を読むときの気持ちだ。雑念を払った澄み切った静かな心。クリストファーはその明鏡止水の心で光の中の格子窓に触れた。そのままゆっくりと窓を引き開ける。
爽やかな朝の風がクリストファーの頬を撫でた。
クリストファーは初めて全身に日光を浴びた。
ある夜のこと。本堂の僅かな灯りの中で、クリストファーが静かに
「よもや、こんなところに隠れていたとはな」
忘れるはずもない。あの恐るべき一族の仇、宿敵ダミアーノの声だった。
クリストファーは心をいささかも乱すことなく、正座をしたまま半回転して来客へ体を向けた。
「よく、私が生き延びていたことに気付きましたね」
「吸血鬼に遭遇したと漏らす東洋人と遭ったのだ。そこでひとり討ち漏らしていることに気付いた。俺の目的は吸血鬼を根絶やしにすること。逃がす気はない」
「その執念。恐れ入ります」
クリストファーはダミアーノに向かって頭を下げた。
「仏僧の真似はもういい。今までそうやって正体を偽り、何人の生き血をすすった?」
ダミアーノが聖別された銀の剣を抜き放つ。背後からの月光が刃の上を滑る。
クリストファーは恐るべき吸血鬼とは思えない、穏やかな微笑みを浮かべた。
「仏教へ改宗して以来、吸血はおろか、人を殺めたこともございません」
「ぬかせ、吸血鬼め」
正座したままのクリストファーの首に宝剣の鋭い輝きが突き付けられる。
しかし、クリストファーが刃の恐れに従うことはなかった。
「やりたければ、どうぞご自由に」
ダミアーノの目が
少しでも力を込めれば、その剣は易々とクリストファーの首へ埋まり、そのまま胴体から切り離してしまうだろう。
仕事はあまりに簡単だ。だが、ダミアーノの剣は動かなかった。
これまでこんな無抵抗な者はいなかった。しかも、それが諦めからの無抵抗ではない。
「なぜだ?」
問いかけるダミアーノに、やや時間を置いてクリストファーは答えた。
「私は一族を皆殺しにしたあなたに復讐するため、無敵の吸血鬼になろうと決意しました。我ら吸血鬼は神聖なる信仰に逆らい堕落した存在。故に、十字架や太陽の光を恐れた」
クリストファーはゆっくりと合掌する。その両手には黒檀の数珠がかかっている。
「背信故の弱点ならば、改宗すればよい。そうして仏門へ入りました。そして修行を積み重ねる内に知ったのです。私の弱点は、外側ではなく内側にあるのだと。すなわち恐れです」
「恐れ?」
「左様。今の私には仏の教えがあります。故に十字架も日光も、銀も恐れない。実質、無敵の吸血鬼となりました。血を吸わなければならぬという観念も消えました。毎日、大豆を発酵させたものを食べていますよ」
クリストファーは笑う。
「獣がなぜ襲い掛かるのか。それは、恐れているからなのです。あなたたち吸血鬼ハンターも吸血鬼を恐れているから、こうしてやってくるのでしょう? 血も吸わぬ、襲い掛からぬ、剣を向けても動かぬとあれば、何を恐れる必要がありましょうや?」
クリストファーはグッと喉をダミアーノへ差し出した。
「それでもやるというのなら、どうぞひと思いにお願いします。私はもう恐れも弱さも何もかもを受け入れました。そうされるだけの業も背負ってきましたし、それも受け入れます」
ダミアーノの手が震えた。これがあの残虐非道な吸血鬼か。
しばらくの間、自らに課せられた使命と、クリストファーの言葉を天秤にかけた。
「貴様、本当に吸血鬼なのか?」
「さぁ、どうでしょう。もう血など長らく吸っていませんね」
クリストファーはあっけらかんと笑う。
やがて天秤が傾くように、剣を握った手が落ちた。
「どうやら、俺が追っていた吸血鬼はすでにこの世にはいなかったらしい」
クリストファーは深く深く頭を下げた。それが上がったときにはすでに、ダミアーノの姿はなかった。
クリストファーは復讐を果たさなかった。同時にダミアーノも使命を果たさなかった。そこに争いは生まれなかった。
争いがなければそこに敵はなし。クリストファ―が仏道を歩んで辿り着いた場所である。
無敵とはすなわち、そういうことだった。
「行くかね」
腰の曲がった住職が寺の先でクリストファーを見送りに出た。
クリストファーは草履に編み笠を被り、伝統的な旅の僧侶の装いだ。
寺で多くを学んだクリストファーは、次の学びの場所を外へと移すのだった。
「はい。
「若狭といえば、福井県ですか。人里離れた洞窟にいるというのでしょう? 出会えればよいですが」
住職は案ずるように眉尻を下げる。
「時間はいくらでもあります。お互いにね」
クリストファーは笑った。幾人もの人の生き血を吸った牙が覗く。彼が吸血鬼でなくなることはない。それでも、彼はもう吸血鬼ではなかった。
住職はクリストファーの前途を祈るように合掌した。
「お達者で」
「行って参ります」
こうしてクリストファーは寺を去った。
その後の青坊主クリストファーの足取りは
闇夜に巣食う色即是空 月夜に妖しき空即是色 三宅 蘭二朗 @michelangelo
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