episode.3〈是〉

 日本で仏僧となったクリストファーに、朝から早速、試練が待ち受けていた。


 日光の差さない部屋の隅で、慣れない日本の朝食を迎える。殺生せっしょうの許されない仏教にあって、食事は植物性のもので揃えられている。人間の生き血を吸うなどもってのほかだ。


「血を吸う、吸わないよりも、吸いたいと思う心の方が重い」


 住職の言葉にクリストファーは渋面じゅうめんを作る。今すぐ、誰でもいいから若僧侶の血を吸ってやりたい。


「吸血を封じられて苦しむなど、それこそ弱点。まずはそれを克服しましょう」


 住職はおごそかに箸を取り、「いただきます」と呟いて食事を始めた。


「これは?」


 仕方なく受け入れたクリストファーが指差したのは、吸血貴族の目には真っ白いババロアにしか見えないものだ。


「豆腐にございます。有体に言えば発酵した大豆です」


 クリストファーは慣れない箸捌きで苦労しながら、ようやくひと口、口にした。


 あまりに淡泊な味わいに顔をしかめる。


「塩味が足りないと思うなら、こちらをおかけになって下さい」

「これなら知っているぞ。ソイソースだ」

「左様。大豆を発酵させて作った調味料です」


 慎重に醤油を垂らす。馴染なじみのない味だが、かければ豆腐もまだ食べられなくはない。


「これは?」


 クリストファーが椀に入った汁に目をやる。


「それは味噌汁。ミソスープですね。味噌は大豆を発酵させて作ったものです」

「では、これは?」


 強い匂いを放つ小鉢に箸を差す。引き上げると、豆から糸が引いた。


「納豆にございますよ。大豆を発酵させたものです」

「お前たちは大豆を発酵させたものしか食わんのか!」

「あなただって、人間の血しか吸わなかったのでしょう? 偏食というなら、似たようなものではないですか。さぁ、召し上がって下さい」


 クリストファーは言葉に詰まり、これも無敵になるための修行と自らに言い聞かせて朝食を進めた。納豆は残した。


 こうして、クリストファーの仏門修行の日々は始まっていった。住職はクリストファーを日中には外に出さないということ以外で、特別扱いしなかった。


 クリストファーは太陽の出ている間は、書庫や本堂の奥の板間など、日の差さないところの掃除や、庫裏くりで経を音で追いながら読むなどして過ごした。


 読経どっきょうでは、住職の指導もあった。


「クリストファーさん。経を読むときは、雑念を取り払い、ただ己の内側と向き合いなさい。明鏡止水めいきょうしすい。澄み切った静かな心を目指すのです」


 夜になると、外へ出て庭や建物の外壁を掃除した。


 一日の雑務をこなすと、今度は来るべき吸血鬼ハンターに挑むための戦闘の鍛錬へ向かおうとした。しかし、それを住職が制する。


「クリストファーさん。鍛錬も大切とお思いでしょうが、体を休めることも立派な修行です」

「だが、体がなまっては、奴に遅れを取ってしまう」

「いくら腕っぷしが強くても弱点を突かれたらひとたまりもない。でしょう? まずはそれを克服するべきです」


 同胞がなす術なくやられていく様子が脳裏によみがえる。


 住職の穏やかな言葉はしかし、鋭く正しい。クリストファーは納得して、夜の読経へ向かった。


 いつしか、寺に変わった僧侶が住み出したという話が周辺に広まっていった。


 寺に縁のある者や地元の人間は、そんな夜にだけ目にする異国の僧侶を、血の通っていない青白い肌と青い目から、青坊主あおぼうずと呼び、次第に受け入れていった。




 ある日の夜のことである。クリストファーは本堂に住職を呼び出した。


「俺は仏教へ改宗し、来る日も来る日も座禅を組んで、経を読んでいる。しかし、本当に弱点を克服できているのか?」


 クリストファーからは静かな威圧感が放たれていた。いかに仏門に入ったとはいえ、長い時間、人を血袋と思って生きてきた怪物だ。住職が適当なことを言っていたと判断すれば、その首をへし折り、カラカラになるまで血をすするつもりなのだ。


「では、試してみればいいではないですか。十字架を用立てましょう。握ってみるといい」


 事もなげに住職が言うので、クリストファーは一瞬、面食らった。住職はその様子に穏やかに微笑むと、くるりと背中を向けた。


「今宵は綺麗な満月が出ています」


 ふたりは夜空の下へ出た。


「クリストファーさんは、日光は駄目でも月の光は平気なのですね」

「吸血鬼は夜に生きる者だからな」

「しかし、そんなこと、道理に合わないと思いませんか?」

「どういうことだ?」

「そりゃあ、そうでしょう。月光は、太陽の光が月に反射したものなのですよ。つまり月光は太陽の光と変わらないのです。ならば、どちらかが苦手などおかしい」

「反射した光は直接光とは別ものだ」

「ほう? では、鏡に反射した日光なら、平気なのですね?」


 クリストファーは思わず閉口した。そんなわけがない。反射した日光を浴びたって吸血鬼の肉体は瞬く間に灰になる。


「いいですか? クリストファーさん。あなたは日光を恐れているのではありません。ただ、日光は恐れるべきだという想念そうねんに囚われているだけです」

「想念……」

「そう。日光ではない。心深く染みついた恐れが、あなたたちの肉体を灰にしているのです」


 住職はクリストファーの胸に、鼓動しない心臓に片手を当てた。


「十字架もそうです。聖水も、聖別された武器もみんなそう。信仰をなぞったものへの恐怖が、あなたたちの弱点なのです」

「つまり、我らの肉体を蝕んでいるのは、それ自体ではなく、我らが心に抱いた恐れだ、と?」

「然り。吸血鬼ハンターは、あなたたちを退治できるよう、信仰と教義の中に伝承、言い伝えを巧みに組み込み、吸血鬼の弱点という物語を作った。あなたたちの恐れるものの正体とはそのようなものなのです」

「我らの弱点は単なる思い込みにすぎないということなのか?」

「乱暴に言えばそうでしょう。だって、思い出してごらんなさい。あなた、一体どうやって日本へ来ました? 飛行機でやってきたのでしょう? 吸血鬼は川を越えられないんじゃないのですか? 一体、飛行機でいくつの川を越えたのでしょうか」


 住職は愉快そうに微笑む。住職の言うとおりだ。飛行機でヨーロッパやアジアの川を幾つ超えたろう。そこに川があることすら認識していなかった。しかし、川があると思えばきっと渡れなかったに違いない。


「では、心臓に杭を打たれることはどうだ?」


 反論するようにクリストファーは問う。住職は笑った。


「心臓に杭なぞ打たれたら、どんな生き物だって生きてはおられますまい。そんなもの、吸血鬼の弱点ではございませんよ」


 愕然がくぜんとするクリストファーに住職は両手を合わせる。


「あなたが仏道で目指すのは恐れに従わぬことです。仏教で言えば不動。さすれば、おのずとあなたの求むるものが手に入るでしょう」

「恐れの克服……」

「左様。しかし、行うはかたし。時間はかかるかもしれません。ですが、己の内なる恐れに流されぬようになったなら、日の光の元へと出てみて下さい。何か変わるかもしれません」


 住職は庫裏へ足を向けた。去り際、一度だけクリストファーに振り返る。


「もっとも、私は吸血鬼ではありませんから、本当のところはわかりませんがね」


 住職は去った。


 クリストファーはしばらくじっと月を見上げていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る