第3話:女帝 ― 黄金の揺り籠と甘い毒 ―【前編】


白砂の回廊を抜けた先、ゆりえを待ち受けていたのは、視界を焼き尽くすほどの眩い色彩と、不気味なほどの「無臭」だった。


そこは、永遠の午後のような陽光が降り注ぐ、巨大な庭園だった。

木々には宝石のように磨き抜かれた果実が重く垂れ下がり、足元では見たこともないほど巨大なバラが、今にも溢れんばかりの蜜を湛えて咲き誇っている。


だが、おかしい。

これほどまでの花の氾濫がありながら、風が運んでくるのは花の香りではなく、ただの乾燥した、無機質な空気の層だけだった。


「……暖かい。ねえ、メルミ。ここ、夢みたいに綺麗……」


ゆりえは吸い寄せられるように、目の前の大輪のバラへと手を伸ばした。

指先がその薄い花弁に触れた瞬間、ゆりえの背中に冷たい戦慄が走った。

柔らかい粘膜の感触ではない。指に伝わってきたのは、硬く、冷たく、滑らかな合成樹脂(プラスチック)の拒絶だった。


(……これ、生きてないんだ)


宝石のような果実も、重なり合う葉も、叩けばコンコンと乾いた音を立てる。そこにあるのは「生命」ではなく、精巧に模造された「死の展示」だった。


「ふんっ。鼻が曲がるどころか、鼻が詰まりそうだわ。……ねえゆり、あんた、この安っぽいおもちゃ箱に騙されるんじゃないわよ。ここは庭じゃない。ただの『剥製(はくせい)の楽園』よ」


半歩前を行くメルミは、その短い鼻を不機嫌そうに鳴らした。

彼女だけは、この眩い極彩色のなかで、一歩ごとにプラスチックの床を爪で引っ掻く「チッ、チッ」という不快な音を響かせている。


「よく来ましたね、可哀想な子。もう、何も恐れることはありませんよ」


庭園の奥、大樹の根元に設えられた黄金の玉座。そこに、圧倒的な慈愛を湛えた女性――女帝が座していた。

彼女は豊かな肉体を黄金の絹で包み、ゆりえを招くように両腕を広げる。


「ゆりえ。その重いがま口を捨てなさい。そんな不純な記憶を抱えているから、あなたはいつまでも苦しいのです。私の庭で、永遠に変わらない『置物』になりなさい。それが、あなたがずっと求めていた救いでしょう?」


女帝の言葉は、熱を持った蜜のようにゆりえの耳へ流れ込んだ。

(置物……。そう、変化もせず、腐りもせず、ただここで愛されているだけで許されるなら……)

ゆりえの指から力が抜け、がま口のストラップが肩から滑り落ちそうになった、その時。


「……気持ち悪いわね。あんたの言ってるのは『愛』じゃない。ただの『保存』よ」


メルミの声が、死んだ空気を一刀両断に切り裂いた。

女帝の眉が、わずかにぴくりと跳ねる。彼女は初めてメルミを視界に入れ、その首に黄金の飾り糸を絡めようと指を動かした。


「愛らしい獣。あなたも、ゆりえと一緒にこの揺り籠で眠りなさい。永遠に色褪せない価値を与えてあげましょう」


「お断りね」

メルミは飾り糸を鋭い牙で噛み切り、女帝の足元に吐き捨てた。その瞬間、庭園の「偽物の太陽」が、電圧の不安定な電球のように一瞬だけ激しく明滅した。


「あんたの愛は、時計の針を止めてるだけよ。……悪いけど、私たちはもう『終わりの先』を見てきたの。こんな箱庭、一蹴りで十分だわ」


「……何ですって?」


女帝の慈愛に満ちた顔が、一瞬で凍りついた。

彼女は、目の前の小さな四足の獣の瞳の中に、あってはならないものを見た。

それは、自分たちアルカナですら触れることのできない、この世界の『外側』の風。すべてが終わり、そして完成された場所から吹いてくる、絶対的な権威の残響。


(……何なの、この獣は。私の『法』が効かない……。こいつが喋るたびに、私の庭の構造が書き換えられていく……!)


女帝の形相が、獲物を逃すまいとする執着へと変貌していく。

彼女の手から伸びた蔦が、どす黒い硬質の茨へと姿を変え、ゆりえとメルミを分断するように地面を這った。


「黙れ……! この子は私のものだ。私の庭で、永遠に幸福な『標本』として、美しく飾っておくのだ!」


「……っ、嫌よ!」 ゆりえは叫び、咄嗟にがま口を強く握りしめた。 メルミの背後に宿る、名前のつけられない「強さ」。その残響が、ゆりえの心に眠る生存本能を呼び覚ましていた。


「私は標本になんてならない! 私は……メルミと一緒に、歩きたいの!」


その叫びに呼応するように、楽園の黄金が、剥がれかけた安っぽいメッキのようにボロボロと剥落していく。 甘美だった揺り籠は一変し、逃げ場を塞ぐ「硬質の合成樹脂の茨」となって、ゆりえとメルミの周囲を高く、冷たく、包囲していった。


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半歩前のメルミと、ゆりえのがま口 リリフィラ @Liriphira

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