第2話:女教皇 ― 沈黙に滲むザクロの赤 ―【後編】



女教皇が指し示した泥だらけのザクロを前に、ゆりえの呼吸は浅く、冷え切っていた。




鏡の中に映る自分は、相変わらず無様に、消え入りそうな顔でこちらを見ている。女教皇のヴェールの奥から漏れ出す「完璧な沈黙」は、不完全なゆりえを、まるで存在してはならない不純物のように追い詰めていく。




(……捨てなきゃ。綺麗に整理して、謝って、消えてしまわなきゃ……)




思考が「あの日」の不快なノイズに触れようとし、ゆりえの意識が混濁した、その時だった。




「……ねえ。いつまでそんなに肩をいからせてるのよ。あんた、呼吸の仕方を忘れたの?」




足元から、場違いなほど平坦な声が響いた。


見れば、メルミが女教皇の座す台座の影で、豪快にあくびをしていた。彼女は白砂の上にどっかりと腰を下ろし、退屈そうに自分の尻尾を眺めている。




「メ、メルミ……」




「いい? ゆり。そんなに自分を削って綺麗になろうとしたって、あんたはあんたのままよ。このお姉さんが言ってるのは、ただの『お掃除』の理屈。……あんたの中にあるそのドロドロしたやつ、無理に捨てなくていいわよ。……眠らせてあげなさい」




メルミの言葉が、ゆりえの胸に熱い楔を打ち込んだ。


ゆりえは、耳を塞ぐのをやめた。鏡の中の醜い自分から、目を逸らすのをやめた。




女教皇のヴェールが、秩序を乱す者への拒絶として、氷のような冷気を放つ。ノイズが耳元で「ジャリ……」と不快な音を立てる。




ゆりえは、そっと目を閉じ、震える唇を開いた。


それは、誰かをねじ伏せるための叫びではない。


自分の中で暴れ回る「自責」という名の怪物に、そっと毛布を掛けてやるような、静かな、静かな旋律だった。




『……la……lula……』




そのハミングが回廊に響いた瞬間、世界が震えた。


激しい爆発ではない。それは、硬く凍りついた氷が、春の陽光に触れて「溶け出す」ような変化だった。




女教皇の掲げる鏡が、霧がかかったように白く濁り、ゆりえを縛り付けていた黒い文字の鎖が、柔らかな煤すすとなって白砂に吸い込まれていく。


ノイズは、子守唄を聴かされた子供のように穏やかな「残響」へと姿を変え、ゆりえの脳髄を刺すのをやめた。




(……ああ。私は、このままでいいんだ)




ゆりえは、ゆっくりと目を開けた。


彼女はただ、一歩、また一歩と、自分の足で白砂を踏みしめて前へ進んだ。


女教皇の冷徹な審判を、ゆりえの「主観の歌」が優しく無効化していく。




ゆりえは、女教皇の足元に転がっていた泥だらけのザクロを、そっと、壊れものを扱うように拾い上げた。




女教皇は、微動だにしない。


ただ、そのヴェールが、役目を終えたカーテンのように静かに凪いでいる。ハミングの余熱に溶かされた回廊は、もう先ほどのような牙を剥くことはなかった。




ゆりえはがま口を閉じると、立ち去る前に一度だけ足を止め、無機質なヴェールの奥を覗き込んだ。そして、独り言のように、静かに呟いた。




「……こんなに静かで、綺麗なところに。ずっと一人でいて。……さみしくないの?」




その言葉が落ちた瞬間、回廊を支配していた完璧な秩序が、ふっと体温を持ったように緩んだ。


女教皇の指先が、ほんの一瞬だけ、震えたように見えた。


彼女は何も答えなかったが、その静寂は、もうゆりえを拒絶する「冷たさ」ではなく、どこか遠い記憶を慈しむような「穏やかさ」へと変わっていた。




ゆりえはザクロの重みを腰に感じながら、前を向いた。




トン。




がま口の中で、銀の針とザクロが、互いの体温を分け合うように沈んでいる。




「行くわよ、メルミ」


「……フンッ。あんたって、本当に余計なことばかり言うわね、ゆり」




メルミは呆れたように鼻を鳴らしたが、その足取りはどこか軽やかだった。


二人は、もはや振り返ることなく、霧の向こう側へとゆっくり歩き出した。








【エピローグ:砂の味のする果実】




霧を抜け、モノクロームの道にたどり着いた時、ゆりえはがま口をそっと撫でた。


腰に伝わる重みは、さっきよりも少しだけ、心地よいものに変わっていた。




「……ねえ、メルミ。これ、いつか甘くなるかな」




「さあね。あんたが、その泥だらけの自分を、砂じゃなくて『土』だと思えるようになったら、味も変わるんじゃない?」




メルミは後足で器用に耳を掻き、また「半歩前」を歩き始める。




「……土、か。……ふふ、変な犬」




ゆりえは小さく笑い、メルミの短い尻尾を追いかけた。


まだ、世界に色は戻らない。


けれど、彼女が唇でなぞったハミングの余熱が、冷え切った胸を、ほんの少しだけ温め続けていた。




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