第4話 紺碧の抱擁

 心臓が跳ねる。

 ハウリナを庇って一歩下がる。

 だが祖父は穏やかな笑顔のまま、自身も一歩下がって見せた。


「いろいろなぜ、という顔だな。まず、『迷子の人魚』についてだが、言い伝えと⋯⋯予感というか胸騒ぎだ。『迷子の人魚』が現れると、天気と関係なく不自然に海が荒れ、漁を阻むと言われている。人魚が陸に上がった地域だけで起きる現象だ。それは人魚が海に帰るまで続く。あとは、ここ一週間くらい、気持ちがざわついていた。それが、つい今しがたから激しくなった。その子を目の当たりにしてわかった。胸騒ぎの元は、その子だ」

「じゃあ、悪さをしないと言い切れるわけは?」


 僕の焦りに、祖父は小さく笑って答えた。


「それは⋯⋯この導汐みちしお神社は、過去に打ち上げられた『迷子の人魚』を祀った神社だからだ。ご神体になにかする奴が、この神社では働けない」

「人魚を⋯⋯祀った⋯⋯」


 この神社が人魚関に関わっていたとは、今の今まで知らなかった。祖父のことは信用しているけど、さらに安心といえそうだ。


「言い伝えでは、人魚は海に返さねばならない、とある⋯⋯まあそのことは明日ゆっくりと考えよう。今日は泊まっていきなさい」


 僕らは祖父の好意に甘えることにした。離れに帰らなくても、どうせ誰も確かめたりはしない。





 翌朝。

 空には黒い雲が垂れこめ、雨はいよいよ激しさを増していた。


 朝食を食べ終わり、泊まった部屋を掃除しているときに、騒ぎは起きた。


「ちょっとお待ちください! 勝手に上がられては困ります!」


 社務所の玄関の方で、巫女さんの悲鳴のような制止が聞こえる。


「ハウリナ」


 僕は上げかけの布団を端に下ろし、枕だけ持って廊下に向かって後ろにハウリナを隠す。

 間を置かず、どたどたという激しい足音が鳴る。


わたる! 逃げろ!」


 祖父の声。

 ほぼ同時に、叔母が廊下へ続く襖を乱暴に開けた。叔母はにこやかに僕たちを見ていた。しかしその目は血走り、見開かれ、そして手には大きな刺身包丁を持っていた。

 

「航⋯⋯ああ、可愛い航。それ・・が人魚ね。今まで育ててきてよかったわ! さあ、どきなさい!」

「叔母さん、そんなもの持って、どうする気なんだ!」

「決まってるでしょう。解体して食べるのよ⋯⋯そして私は不老不死になるの!」


 叔母は壊れた玩具のような笑い声を上げた。

 背筋に悪寒が走る。


「女将! それ・・は貴重なサンプルでス! 〆るのは調査のあとでス!」


 廊下にもうひとつの声。ジンベエザメ柄のベレー帽の男も来ているのだ。


「叔母さん、手引きしたのか⋯⋯」

「ええ。あの人は海洋研究所の偉い先生なの。話を聞いたとき、ピンときた。人間に化けた人魚の背格好が、あなたが連れ込んでいるってスタッフから聞いていた女とぴったりだったからね。女を部屋に連れ込むくらい別にどうでもよかったけど、人魚となれば話は別よ。さあ、どきなさい!」

「嫌だ! 叔母さん、おかしいよ。この姿を見てなお『食べる』とか、どうかしてる!」


 僕の言葉に、叔母の顔から笑みが消えた。残ったのは執着と憤怒だ。手に持った刺身包丁の切っ先がこちらを向く。


「その肉を⋯⋯よこせぇっ!」


 包丁を構えたまま飛び込んでくる叔母。

 僕は両手で持った枕でそれを受け止める。畳に蕎麦殻がぶちまけられる。胸の前に切っ先。奇跡的にどこも切っていない。


「うわああぁぁぁ!」


 枕で掴んだ包丁ごと叔母を部屋の隅に突き飛ばす。

 そのままハウリナの手を引いて部屋を飛び出す。

 社務所の裏口へ走る。


「海へ! 海へ返せ!」


 背中に祖父の声を受け止め、僕たちは裸足で海へ走った。





 鳴潮窟めいちょうくつ

 汐ノ澄しおのすみ浜からほど近い、波に削られた洞窟だ。海面下の潮流によって音を立てる不思議な洞窟で、町の外の人間にはほぼ知られていない。


 必死で神社の丘を駆け下り、洞窟に身を隠してようやく足を止め、弾む息を整える。


「ハ⋯⋯」


 言いかけて、言葉を失った。

 ハウリナは、全てを失ったかのような呆然とした表情を浮かべていた。


 視界が揺らぎ、ぼやける。

 涙が溢れて、彼女の姿がはっきり見えない。


「ごめん、ごめんな。人間って、こんなだよ⋯⋯」


 腕で目をこする。

 ハウリナは虚ろな目のまま、無理に笑顔を作っていた。


「そんなことない。わたるは優しかった」

「ハウリナ⋯⋯」

 

 見つめ合う。まるでこの世で信じられるのはお互いだけであるかのように。 


 ゆっくり離れて、僕は両手を広げた。


「ハウリナ、海に帰るんだ。僕を刺せ」


 彼女が肌身離さず持ち歩く短剣に目をやる。


「でも⋯⋯」

「もう、いいんだ。やってくれ。僕は王子ではないかも知れないけど、お伽噺の王子よりよっぽど君を大切に思っている。それに、僕ももう終わりにしたいんだ。僕の血を君の役に立たせてくれ」

「⋯⋯わかった」


 ハウリナは意を決して短剣を抜き、僕に近づく。抜き身の刃がゆっくりと迫る。


「指、出して」

「心臓じゃないの?」

「うん。でもだいぶ飲むから痛いよ?」

「そんなの⋯⋯」


 ハウリナが受けたショックに比べたら、大したことはない。

 それよりも心残りなのは⋯⋯


「⋯⋯僕も人魚になって、海についていけたらなあ」


 思わず独りごちる。

 耳聡く聞き取ったハウリナが首を傾げた。


「なる?」

「なれるの?」


 生気を取り戻しつつあるハウリナが、いたずらっぽい顔をする。


「人魚を取り込んでも不老不死になんてなれない。ちょっとなら力が漲り、体が丈夫になる。でも、たくさん取り込むと⋯⋯人魚になっちゃうんだよ。⋯⋯なる?」


 僕は間髪入れず頷いた。


「僕を人魚にしてくれ。一緒に海へ逃げよう」


 ハウリナは僕の手を取り、人差し指を伸ばすと、短剣で第二関節あたりまで浅く傷をつけた。次いで自身の人差し指にも同じくらいの切り傷を付ける。

 僕の指を口元へ引き寄せるハウリナ。そして僕の目の前には、血が滴る彼女の指があった。


 どちらともなく、相手の指に唇を寄せる。

 指先には柔らかな唇の感触。

 口には鉄の味。

 しばし見つめ合いながら、互いの指から湧く血を味わい続けた。

 足先が痺れ始め、それが大腿まで上ってくる。

 ハウリナが安らいだ笑顔を見せた。


「もうすぐ足が尾ビレになるよ。行こう」


 ハウリナが差し出した手を取り、さっきとは逆方向の、海に面した出口へ向かう。

 雨はいつの間にか上がっていた。

 荒れの収まらない海は底知れぬ紺碧に染まっている。

 足の感覚は、もうほとんどなかった。

 ハウリナが僕を見て頷いた。

 僕も頷きを返す。


 僕らは手をつないだまま、ベッドに倒れ込むように、同時に海原へ身を任せた――




   〜〜〜




 鳴潮窟めいちょうくつに騒がしい足音が響いたのは、その直後だった。

 民宿の女将は金切り声を上げた。

 ベレー帽の男は舌打ちをした。


 宮司は騒ぎをよそに、海をじっと見ていた。

 ややあって、波間にふたつの月光色の尾ビレが跳ねたことは、宮司だけが知っている。





   【了】

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人魚の血を分け合った僕たちが紺碧にいざなわれるまで 近藤銀竹 @-459fahrenheit

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