心は広い派?、深い派?

亜香里

心は広い派?、深い派?

 人の心とは、どこまでが「広さ」で、どこからが「深さ」なのだろう。

 私たちはときに言う――

 「あの人は心が広い」

 「この人は心が深い」と。

 けれど、その二つは本当に別のものなのか。

 もしかすると、同じ心が、見る角度によって

 広くも、深くも見えているだけなのかもしれない。


 広い心とは、外の世界に向かって開かれた心である。

 他者の言葉を受けとめ、過ちを許し、

 自分と異なる考えにさえ耳を傾ける。

 その風通しのよさに、人は安心して寄り添う。

 広い心とは――

 人とのあいだに、境界線を引かない生き方だ。


 けれど、ときにその広さは、浅さにも変わる。

 誰かの痛みに共感しすぎて、自分の声を見失ったり、

 優しさの名のもとに、本音を閉ざしてしまうこともある。

 本当に広い心とは、

 ただ受け入れることではない。

 受け入れながらも、静かに自分の中心を保ち続けることだ。


 一方で、深い心とは、内側へと沈み込む心である。

 言葉の裏にひそむ沈黙を聴き、

 出来事の下に潜む意味を探る。

 深い心はすぐには答えを出さない。

 時間をかけて感じ、考え、

 沈黙の底から真実をすくい上げる。

 そこにあるのは、他人の痛みを「理解する」力ではなく、

 「ともに感じる」力である。


 けれど、深さもまた、孤独を孕む。

 内に沈みすぎれば、光は遠のき、

 世界の音が聴こえなくなる。

 深い心は、時として思索の闇に溺れ、

 他者を見失うことがある。


 ――では、どちらがより「成熟した心」なのか。

 答えは、おそらく、どちらでもない。

 広い心は世界を抱きしめ、

 深い心は世界を理解する。

 広さは「関係の中で生きる力」、

 深さは「自分の内側で生きる力」だ。


 そして人は、その二つの間を

 絶えず往復しながら生きている。

 広がりと深まり――その呼吸のなかで、

 ようやく「自分」という存在がかたちを得ていくのだ。


 空のように広く、海のように深く。

 もしそんな心を持てたなら、

 人はきっと、どんな痛みにもやさしく、

 どんな孤独にも、静かに強くなれるだろう。

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心は広い派?、深い派? 亜香里 @akari310

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