私は、満員電車の女性専用車両が苦手だ。
朝の通勤時間帯、駅のホームに立つと、すでに人の波がうねっている。改札を抜けた先から、押し合いへし合いの空気が始まっているのがわかる。
やがて電車が到着し、開いたドアの向こうから、ぎゅうぎゅう詰めの人の壁が現れる。私は一瞬ためらうが、次の瞬間、背中を押されて流れにのまれるように乗り込む。
車内は、空気さえ押し固められたように重たい。肩と肩、腕と腕がぴったりとくっつき、少しでも体を動かそうとすれば、誰かのバッグにぶつかる。吊り革に手を伸ばそうとしても、そこに腕を通す隙間がない。
そんな状況でも、周りの女性たちは、まるで気にしていないように見える。小声で話す人、スマートフォンを操作する人、目を閉じて立ったまま眠る人。誰もが、この密度の中で平然と過ごしている。
私は違う。
相手が男性であろうと女性であろうと、できるだけ他人の体には触れたくない。知らない人の体温や香りが、あまりに近くにあると、息苦しくなる。
人と人の間にある「距離」というものは、単に物理的なものではなく、心の境界線にもつながっている気がする。だからこそ、私はその線を侵されると、内側から静かにざわついてしまうのだ。
女性専用車両という空間は、その境界をあっさりと越えてしまう場所でもある。
後ろから押され、横から寄りかかられ、知らない人の髪が頬に触れる。服の袖が重なり、誰かの呼吸が耳元で感じられる。思わず体をよじって避けようとしても、逃げ場はない。
そんな瞬間、私は自分の存在が空気のように扱われているような気持ちになる。そこには、相手を気遣う「間(ま)」がない。息をひそめ、ただ波が過ぎるのを待つしかないのだ。
ふと考える。
なぜ、女性同士になると、こんなにも遠慮がなくなるのだろう。
「同性だから安心」という感覚が、どこかにあるのかもしれない。女性専用車両という言葉の響きには、たしかに“守られている空間”というイメージがある。けれど、その安心感がいつのまにか、「相手も嫌がらないはず」という思い込みに変わっている気がする。
人と人のあいだに本当に必要なのは、性別ではなく、敬意の距離だと思う。
それは、相手を思いやるための小さな余白。触れないように気を配ることや、わずかに体を引くその仕草の中に、互いの尊重が宿るのだと思う。
たとえ一瞬の通勤電車の中でも、「自分の空間」と「他人の空間」を意識できる社会であってほしい。人が多いから仕方がない、という言葉で済ませてしまうのではなく、ひとりひとりが「他者の存在を大切にする感覚」を持てたら、世界はもう少し優しくなるのではないだろうか。
――女性専用車両の中で、私が息苦しさを感じる本当の理由は、きっとその“近すぎる距離”にある。
それは、物理的な距離以上に、心の距離を失った空間であるからだ。