箱詰め少女。
真昼
箱詰め少女。
夕刻は当の昔に過ぎており、空に大きな満月が浮かんでいる。
山を削り取って出来た一車線の道路。歩道は無く、街灯も百メートルに一つずつ。
俺はそこで古い木箱を発見した。
どす黒くカビていて、相当な年月を感じさせるそれは、まるで誰かを待っているかのように街灯に寄り添っていた。
俺、
腰の高さまである正立方体の木箱。
触れてみたところ、やや湿っていて、ズッシリと重たいことが何となく分かる。
上面は蓋になっており、手を掛けられる箇所があった。
実際に手を掛けてみると、簡単に動いた。
少し蓋をズラして、中を覗いてみる。
「水……?」
街灯の灯りが映したのは、小さく波打つ波紋だった。
雨水でも溜まったのだろうか。
いや、そもそもの話。
この道路は長距離輸送トラックが利用している。歩行者は居なくとも、誰か一人くらいこの木箱に気付いてもおかしくはない。
なのに、明らかに不自然な木箱がずっと放置されていた……?
俺はふと、中身が気になってしまった。
蓋を更に押して、奥へズラしていく。
そうすると徐々に露わになる木箱の中──突然、水中に何かが過ぎていった。
「……?」
また水面に波紋……?
いや、これは蓋を開けた振動によるものだ。だから、そうじゃない。
水の中に……何かが居る。
何かが潜んでいる……!!
好奇心だったものが告げる。
もう辞めた方がいい。これ以上は危険かもしれない。
それは本能に近い危険信号だった。
しかし、蓋は重みで向こう側に落下し、木箱は一瞬にして完全に開いてしまう。
落下した蓋が鈍い音を立てた刹那、木箱の全貌が視界に飛び込んできた。
肉──!!
「──ッ!!??」
思わず、慄いた。
脚をもつれさせ、尻持ちを付いてしまう。
たった今見た光景を思い出し、吐き気を催す。
水は半透明なピンク色だった。
でもその下に、肉が沈んでいたのだ。
「あっ、あぁぁっ──!!」
喘ぐように空気を求めた。
い、いい意味が分からない。
今のは何だったんだ!?
乱れた呼吸を整えるのに相当な時間を要し、身体を起こした時には、辺りに霧が立ち込め始めていた。
俺は周囲の温度変化に目も暮れず、もう一度木箱の中身を確かめようと決心する。
「み、見間違いだ。見間違い……」
呟き、首を振る。
否定したい。否定したいから見るのだ。
それなのに、視覚は正直に訴える。
肉。多分、人間の。
だって、脚や頭、耳、指、唇、髪、肉、肉、肉──そして、眼球。
それぞれが完全な形を保ってはいないものの、間違いなく人間のそれであることが分かった。
ピンク色の水は、全て血だろう。
「け、警察……? い、いや、これは救急車か!? い、いっそ消防車も──」
頭が回らないのは、確かにそうだ。心臓もバクバクしている。
でも、先程と比べて衝撃が薄い。
その理由は主に現実との乖離によるものだろうが、ちょっとした哀れみが逃げ出そうという気を失せさせていた。
死体を放置するのは可哀想。そんな現代人らしい発想が、この期に及んで沸いてしまったのだ。
第一発見者として、少なくとも埋葬はしてやらないと。なんて。
死体なのに腐っていない、とか。
木箱なのに水漏れしてない、とか。
そもそもおかしい、とか。
そこまで頭が働いていない。今はただ、どうしてやるべきかについて思案していた。
そんな矢先だ。
血の湖に一つの波紋が生じた。
「えっ……!?」
やはり見間違えた訳じゃない。
水中に、何かが潜んでいる……!!
「な、なんだ──っ!?」
怖かった。でも、つい覗いてしまうのは人間の性かも知れない。
ジッと肉塊を観察した。その時だ。
それはポチャリと水中から現れた。
眼球だった。
「な、なんだ……」
何かの拍子に沈んでいた眼球が浮かび上がってきたのかも知れない。
そんな呑気なことを考えて、精神の安定を計ったのも束の間──
眼球と目が合ってしまった。
「──ッ!?」
正確には、眼球が此方を向いたのだ。
これには思わず、生存本能が警鐘を鳴らす。俺は瞬時に反転し、この場から逃げ出してしまった。
だが、少し離れたところで脚を止める。
声が聴こえた気がしたからだ。
「え……?」
耳を澄ます以前から、夜は静寂の下にある。簡単に声は届いた。
「おーい」
若い女性の声だった。このシチュエーションにそぐわない、ごくごく普通の、
「おーい、聴こえないのー」
寧ろ、可愛らしい声だった。
「な、何……?」
だからだろうか。返事をしてしまった。
「はっ!? やっぱり聴こえてるんじゃん。ちょっとぉ、戻って来いよー」
「え……?」
快活な女子の声に、戸惑うのも当然。
彼女は「はーやーくー」と、戻って来るように言ってくる。割としつこく。
俺は息を呑み、もう一度木箱に近付いた。
木箱の中を覗き込むと、また眼球と目があった。それはブルブルと震えて周囲の肉を押し退けた後、まるで魚のように泳いでくる。
「わぁっ!! 冴えない顔ぉ、きひひぃっ」
「は……?」
いやいや。え……?
どういうこと……?
真ん丸い眼球には毛細血管のような紐が伸びており、それを上手く利用して眼球が単独で泳いでいる。
肉の岩盤を避け、オタマジャクシが如く水泳している。
「何よぅ。怒ったのー? ……怒った? ねーってばぁ。怒ったのー?」
緊張感が無い。拍子抜けする。
「……いや、別に怒ってないけど。学校でも、良く冴えないって言われるし。友達も居ないし──」
俺は何を言っている……?
現実感の無さから、つい不必要な独り言を呟いてしまった。
「ふーん、かわいそ。私はねぇ……うーん。覚えてないや、ききき」
「は、はぁ……」
「でも開けてくれてありがとねー。ほら、私って手が短いからさ」
そう言って、眼球に付いた血管を触手のように振り始める。まるで宇宙人かタコだ。
「ちょ、ちょっとたんま。お前ってさ……何なの?」
「へ?」
「つ、作り物か……? 何処かにマイクがあって、他の誰かが喋ってる? だとしたら、カメラもある筈だよな?」
この発言は凡そ現実逃避に近いことは理解している。でも悪趣味なドッキリであって欲しいという可能性に掛けて、俺は木箱周辺の観察を開始する。
だが、あっさりとその希望は打ち砕かれた。
「私、どう見ても幽霊でしょ。もしかして、おバカさんなの?」
「……」
そうか。
幽霊と聴いて、特に驚きはしなかった。
何故なら、薄々そう感じていたからだ。
彼女のバラバラな身体。血の湖。泳ぐ目玉。
それと、木箱の蓋を開けた瞬間から、いや木箱を「発見」した瞬間から、俺の胸の辺りで疼いていた違和感──
何と言えば良いだろうか。
俺が知っている言葉の中で最も近いのは、そう。
「魂」が彼女をこの世ならざる者と告げていたのだ。
「幽霊って、本当に居たのか」
「居たみたいねー」
彼女の右目か左目かも分からない眼球が、他人事のように語っている。
ずっと俺を見つめてくるのが、正直気持ち悪くて仕方がない。
例えば身体を右にズラせば、彼女の眼球はしっかり追いかけてくる。
試しにしゃがんでみれば、眼球に付いた血管を使って、ヒョイと木箱から乗り出して覗いてくる。
笑っているような気がした。
器用な奴だ……。
「ね、お喋りしようよ!」
唐突に、そんな提案を受ける。
「え、でも俺。そろそろ帰らないと……」
「ねっ! いいよね! ね、ねねねねね!」
高校に入学して三ヶ月で、俺の学力は底辺まで落ちてしまった。遊んでいたり、授業中寝ていたりした訳でもないのにだ。
単純に俺は馬鹿なのだ。だから、次の試験では平均点より十点以上を獲らなければ、進級までお小遣いを無しにされてしまう。
無論その為の塾通いなのだが、一向に見えない展望にガッカリし、つい道を間違えた結果が今である。
現時刻は八時過ぎ。早く帰らないと、厳しい母に怒られてしまう。
「いや、無理だ。また供養しに来てやるから、それまで──」
「ねねねねねねねねねねねねねねねね──!!」
彼女は息継ぎせず、「いいよね」という意味の「ね」をひたすら連呼してきた。
これが、有無を言わさない、ということだろうか。
「ねねねねねねねねねねねね──」
「わ、分かった。分かったから。呪いみたいな連呼はやめろ!!」
「わはぁぁっ〜! やったやった!!」
つい、了承してしまった。
眼球は、喜びを露わにするべく血の湖を泳ぎ始める。
血管を尾ひれのようにして、ぺちゃぺちゃと音を奏でながら。
「──キ、キモいキモいキモい!! 止めろ、それ。今直ぐ止めろ、キモいから」
すると、眼球がピタリと止まる。
チラリと此方を見た。
「私の特技、見せてあげよっか」
「え……?」
別に見せて欲しいなんて一言も言っていないのに、彼女はその場で一度潜水し、
「──とりゃあっ!!」
可愛いらしい声をあげて、眼球が水面から飛び出した。
見事なジャンプだった。
クネクネとうねりながら目線の高さまで飛んだそれは、着地と同時に水面を叩く。
弾け飛んだ水──もとい血が、俺の口に見事入った。
「うっ──!? ウェッ、オエェッ! ボォェェェッ!!」
俺は嗚咽した。
唾液で口を濯ぎ、地面に吐き捨てる。
ドンッと木箱を叩いた。
「お、おお前なぁっ!! 口に入っただろうが!! ばっちぃだろっ!! 呪われたらどうすんだっ、これ!!」
ぱちゃぱちゃと水を泳ぐ彼女の眼球は、水面に浮いた肉塊に隠れると、恥ずかしそうに言うのだった。
「か、間接キスだね……きひぃっ」
「死ねよ、お前ぇっ──!!」
◆ ◆ ◆
暫く箱に詰められた彼女と話しをし、俺はすっかり状況に慣れてしまった。
「まるで血池に棲むオタマジャクシを見てるみたいだ」
眼球が頭とすれば、繋がっている血管がヒレだ。
「お、おい……筋肉が解けてるぞ、気を付けて泳げ」
これは筋繊維というのだろうか。彼女が遊泳をする度、ふやけた肉や皮がほつれていくのだ。
彼女はどうも気にしていない様子だが、もし自分の身体がそうなってしまったらと思うと、
ゾッとする。
「ねねね、無人ー。私の髪、乾かしてー」
「ちょ、えぇ……マジで言ってる?」
「大マジよぉ。私、すっごい綺麗な髪だったんだから。見て欲しいの!! 自慢したいの!!」
俺は嘆息する。
彼女の血が口に入ったことから、物理的な干渉が可能だと分かった。
浮かんでいる髪を指で掬うと、やはり触ることが出来た。
仕方なく他の髪も丁寧に掬い上げ、木箱の蓋に干すことにした。
まるでワカメを乾かしている気分だ。
髪には頭皮の一部がくっ付いていたり、そうでなかったりしているが、もう今更気にならない。
「天日干しにするからな」
「うん! 有難う!」
「はぁ……つかさ、お前。名前も過去も分からないんだろ?」
話をして、彼女のことが少し分かった。
彼女は記憶が無いのだ。幽霊だから無いのか、彼女だけが特別なのかは不明だ。
なんたって、幽霊を見たのは初めてだからな。
「自分の容姿は覚えているのか?」
尋ねると、ふるふると眼球が揺れる。
恐らくこれは、否定だ。
「髪は綺麗だったなー、くらいの感覚だよ。その他は……ぐぅ、良く分かんないや」
「そ、そっか……一体どれくらい前に、お前は死んだんだろうな。それもこんな山の中で」
街を囲う山々に設けられたこの道路は、長距離輸送用のトラックが良く利用している。
削り取られた山の斜面がしっかり舗装されていて、土砂崩れの心配もない。落石の看板は立っているが、付近に石は見当たらない。
ここは、それなりに利用されている道路だ。
では、彼女は事故で死んだのだろうか。
「どれくらい前かって? あー、それなら多分、一〇年くらい前じゃないかな?」
「え、そうなの? 分かるの?」
「うん! 大体そんくらいな気がする」
「なんじゃそりゃ」
「直感だよ、直感〜、お腹が空いたからお昼だなぁ、みたいな感じの」
「死んでんだから腹空かないだろ。つか、お前の腹何処だよ」
付近に花束やお供え物は無かった。
つまり、つい最近死んだ訳では無いのだろう。
「お前のことさ。もしかしたら分かるかもって言ったら、どうする?」
「え、それホント!? ホントにホント!? 大マジ??」
「ああ、大マジだ。え、何……興味あんの?」
「あるに決まってるじゃん!! 私さ、徐々に記憶が薄れてる気がするの。このお肉みたいにー、きひひぃ」
てっきり幽霊になったことで記憶喪失になったのかと思っていたが、話を聴く限りどうやら違うらしい。
「私、もう長い間、暗闇の中に居たからさ……なんていうか、自分を見失ったっていうか……」
自分という存在やその記憶について、忘れてしまった。そう言いたいらしい。
「髪を綺麗にしてた、とかさ。そんなどうでもいいことは覚えてるんだけど……きっと、当時は本当に大事にしていたんだと思う。だから、今でも覚えているの」
「そっか」
「だからね、私。知りたいんだぁ。自分のこと。どんな顔だったのか、名前は何なのか、とかね」
一〇年間暗闇に居れば、誰しもが精神に支障をきたすだろう。彼女は、記憶の消失によってそれを防いでいたのかな。
後悔や未練があれば、きっとこんなに明るい性格じゃない。会話すら成り立たないかも。
「次来る時はさ。ドライヤーを持って来てやるよ」
「え?」
「もし本当に忘れているだけなら、きっと縁のあるモノを見れば思い出す筈だ。だから、その一環として髪を綺麗に乾かしてやる」
「ほ、本当に……?」
「ああ。上手くいけば、その箱から出られたりしてな」
「そ、そうなったら嬉しい!! 私、ずっと寂しかったから──」
「なら、他に憶えていることがあれば言ってくれ。何かの手掛かりになるかも知れない──どうだ、試してみるか?」
「……えっと」
彼女は不安そうだった。
しかし──
「うん!!」
と、決意を露わにした。
彼女に言ったことは、テレビやネットで偶然知った知識だ。
例えば、未練を断ち切れば成仏するとか。
例えば、死んだことを受け入れれば成仏するとか。
そんな曖昧で不確定な情報を頼りにして、彼女に淡い希望を抱かせてしまったのは、
内心、後悔と罪悪を感じている。
ただ、彼女が不憫だったから助けてあげたいと思った。
そんな偽善が、俺を突き動かしているのだ。
「じゃあ、一杯話すね!! あのねあのね──」
そうして、俺は彼女の言葉に耳を傾けるのだった。
◆ ◆ ◆
「よっ、二日振りだな」
俺は二日振りに木箱の蓋を開ける。すると、彼女の眼球は主人を迎えた犬のように、泳ぎ始めた。
「遅い遅い遅ぉっーいっ!! 何してたのさぁっ!!」
「何って、学校だよ。ほら、高校の制服。分かるか?」
「分からん知らん不理解不利益高収入ぅぅー!!」
「何それ、一〇年前に流行ったの? 忘れろよ、そんな記憶。容量圧迫するだろ、バカなんだから」
俺は水に浮かぶ髪を掬いあげながら答える。濡れた髪と天日干しにしていた髪を合わせた。
アスファルトの地面に座り込み、ポータルブルドライヤーでそれらを乾かし始める。
「この周辺で死んだのは、全部で四人だった。一応、誤差を考えて十五年分調べて来た。図書館でな」
「うんうん、それで!?」
「死因は全員、車に跳ねられた交通事故だ。その内の二人は男だった。一応確認するが、お前女だよな?」
「……ええと」
ウグイスのような軽快で高い声だから、若い女性だと判断したのだが……。
「え、まさか男なのか……!?」
「えへへ。乳首探す……?」
「……それは男にもあるだろ、バカが」
八の字を横に描くように泳ぐ彼女が、焦ったように、いや照れたようにスピードを上げ始め、
「じゃ、じゃあ……あの。アッチ、探す……?」
「……」
とか言ってくる。
アッチとは、アッチのことだ。
下のことだ。
「いや、いい。その恥じらいなら女だろ」
話を元に戻して──
「残りの二人は、えらい事故だった。身体の欠損が激しかったそうだ」
「やっぱりさ、私って凄いヤバいのかな? 元の死体というか」
「さぁな。幽霊なんて、お前が初めてだし。でも、よくあるよな。死んだ時の傷のままで彷徨っている幽霊ってのはさ」
これもネットで知った知識だ。
色んなサイトを漁ったが、残念のがらどれも同じようなことしか書いてなかった。
俺は、取り敢えず損傷の激しい二人に絞って話を続けていく。
「八年前と十五年前に一人ずつ。前者は、俺と同じように道を誤って、ここを歩いていたらしい。ボーっと直進していたら、ここに着いちまうからな」
「ふむふむ。じゃあ、私もそうなのかなぁ。バカだから」
「当時は街灯が極端に少なかったらしいんだ。だから暗闇で跳ねられて、芋虫みたいに、そうプチッと……まぁ、紛れもなく不幸な事故だ」
そして後者は──
「十五年前に至っては、街灯すら無かったらしい。更に当日は雨だった」
「雨嫌ぁい。雨漏りするんだよー、これ」
「トラックに跳ねられたらしい。でもその時は未だ息があった……その状態でもう一度、跳ねられたって──自殺だったってさ。運転手は怖くなって逃走。放置されたぐちゃぐちゃの死体は水で流されて──」
「自殺……」
木箱の中から小さな声がした。
「皮肉だな。全てを無くしたかったお前が、失ってから苦しむなんて。ま、これがお前だったらの話だが」
しかし、年代も近いし可能性のある話だ。
俺は改めて彼女に問うことにした。
「お前、本当に思い出したいか?」
そう尋ねたのは、仕入れた情報がどれも悲惨なモノばかりだったからだ。
イジメられてた、とか。
虐待されてた、とか。
そんなのばっかりだった。
木箱の彼女は相変わらず泳ぎを続ける。木箱を背にした俺は、それを背中で感じるのだった。
彼女は俺の問いに、
「忘れるのって、怖いよ」
ただの一言で返した。
彼女はこれからも忘れていくだろう。自分の髪が綺麗だったことも、きっと忘れてしまうだろう。
彼女からすれば、俺は天から垂らされた蜘蛛の糸なのだ。
俺が居なくなれば、彼女はまた暗闇に閉じ込められてしまうから。
「分かった。なら最後まで付き合ってやるよ」
「有難う、ききき」
それから暫くの沈黙。ドライヤーを消したことで、彼女は見えない口を開いた。
「髪、乾いた?」
「え? あ、うん」
「えへへ、どぉ? 綺麗でしょ!! きひひぃ」
「うん、そうだな。凄く綺麗だ」
「見せて見せてぇ!! きっと何か思い出せるよぉ〜!!」
「だ、駄目だ」
「えー、どうしてさぁ?」
「えっと……ほら、もう少しお前の記憶を整理したい。一番効果的なタイミングで見せてやるからさ」
「おおおー!! 確かにぃ、無人ってば天才か!?」
彼女は納得すると、血飛沫をあげて喜びを表現する。
そんは彼女に苦笑しながら、どす黒く変色したバサバサの髪を大切に握り締めた。
★
「アポイントを取ったからさ、明日行って来るよ。明後日、報告しに来るから待っててくれ」
俺がそう言うと、バシャバシャと水を立てた彼女は反論する。
「連れてって!! 連れてけー!!」
「は? え、どうやって……? 無理だろ、バケツも無いし……木箱は持ってけないぞ」
「手ぇ貸して!!」
イキリたった彼女にそう言われ、水に手を付けてみる。
すると、彼女の眼球が絡み付いて来た。
「うぇっ、だからキショいってば」
それはシャクトリムシのように腕を這って、肩を伝い顔へ飛び移る。
口に侵入して来た。
「どれどれぇ〜。虫歯はありませんかー。なんちって、きひひっ」
「うっ、オエエッ──!! キモいって言ってんだろ、お前ぇっ!!」
ブェッと眼球を手に吐き出した。
彼女は大人しくもう一度登ってくると、「文字通り」目を合わせた。
「な、何だよ……」
「そのままじっとして」
そう言うと、ゆっくりと彼女の眼球が、俺の右眼に近付いて来る。
血管の触手を伸ばし、眼が入り込んでくる。
完全に合わさった。
「──ッ!?」
「合体っ!!」
「お、お前ふざけんじゃねーぞ!!」
「げへへっ、いいじゃんか別に」
「いい訳ねぇーだろ! 離れろよ!」
「ここ、住み心地いいね。ぴったりだし」
「……え、何? これで会いに行けって言ってんの? ……てかこれ、今日はずっとこのまま?」
「あいあい、よろしくぅ」
眼の中に入り込んだ彼女に対し、成す術は無かった。人体を透過する術を持っているとは、やはり彼女は器用だ。
今日は仕方なく、そのまま家に帰ることにした。
◆ ◆ ◆
彼女はこの一〇年間を埋めるように、テレビや漫画、雑誌、その他諸々を大いに楽しんだ。
風呂もトイレも勿論一緒だ。
「ねぇ次は何を見せてくれるの!?」
「そうだなぁ、次は──」
沢山色んなものを彼女に見せてやろう。そうすれば何か思い出すかも知れない。
と思っていた俺に、
「無人!! アンタ、勉強はどうしたの!?」
二階でテレビを観ていた母が、俺をそのように叱ってきたのだ。
俺はウンザリして答える。
「学校でやったよ!! 塾でもやったしさぁっ!!」
「アンタ、昨日塾サボったの知ってるんだからね!? お隣りの川上さんが言ってたわよ!? 図書館で悪趣味なもの調べてたって!!」
ここ数日、何度か塾をサボった。無論、事故や幽霊について調べる為である。
どうやらその内の一回を、母の知り合いに見られていたらしい。
サボりがバレて、つい顔が熱くなる。
「アンタ、高校生になった自覚あるの!? テレビばっかり見てる暇あらなら、もっと頑張ったら!?」
だから、俺はついカッとなって母を怒鳴り付けるのだ。
「頑張ってる……!! 頑張ってるよ!! 何も見てない癖に、適当言ってんじゃねーよ!!」
「アンタ、なんて口きいてんの!!」
扉を勢いよく閉めた後、階段をワザと踏み付けながら二階に登る。隅にある自分の部屋へ逃げ込んだ。
勉強机に付き、教科書とノートを広げて勉強を始める。もうヤケだった。
どうしていつもこうなんだ。
どうして頑張りを認めてくれない。
やってんだよ、こっちは!!
でも、出来ないんだよ!!
その悔しさが分かるか!?
「……無人。お母さんと仲良くしよ?」
右眼にそう言われ、ようやく彼女の存在を思い出す。
あんなやり取り、他人に見られたくなかった。
「う、うるせぇなぁ。黙ってろよ」
「……うん」
彼女は素直に、以降何も言って来なくなった。それはそれで張り合いが無く、やや寂しい気持ちになってしまう。
俺は首を振って、勉強を続けた。
せめて得意な数学を勉強して、自尊心を高めようとしていた。
なのに、回答した答案は全て間違っており、自身の理解力の低さに絶望する。
「くそ……」
ポタリと雫がノートに落ちた。
また一つ、もう一つ、と雫が落下していく。
「頑張ってるけど、分からないんだよ。どうしろってんだ」
もう全て諦めたい。投げ出してしまいたい。それか、過去に戻ってやり直したい。
もし恐怖心が無かったら、痛みが伴わなかったら、いっそ死んでしまってもいい。
限界を迎えたころ、声がした。
「私は知ってるよ……?」
「……え?」
「だって夜遅くにしか来てくれないもん。それまでずっと勉強したりしてるんでしょ?」
またもや忘れていたが、そういえば彼女が俺の右眼に居るじゃないか。
泣いているところなんて見られたくない。だけど、この時は無性に嬉しかった。
多分今の俺は、誰かに優しく寄り添って欲しかったのだ。
「……お前のことを調べてて、勉強してない時あるから。そんな、ずっとじゃないし」
強がりか、不貞腐れてか、そう言ってしまう。それでも彼女は優しい言葉を差し伸べるのだ。
「でも、頑張ってるのに違いはないでしょ?」
「……ま、まぁ」
彼女の肉体がここにあれば、思わず抱き着いていたかも知れない。
誰かが居るって、なんて心強いんだ。
「ねぇ、これさ数学だよね?」
「あ、ああ。そうだけど……って、知ってるのか?」
「うん……なんか見たことあるかも」
「ほ、本当か!? 何か思い出せそうか?」
「全然これっぽっちもー」
「んだよ……」
ガックリして椅子の背もたれに倒れ込む。
まぁ数字の羅列によっぽどの思い出が無い限り、手掛かりにはならないか。
ただ、生前の彼女が学生だった可能性は強まったな。
「ねねねね、一緒に考えよ?」
「あぁ? お前、バカなのに出来るのか?」
「出来る!!」
何処から出た自信なのかは知らないが、妙に頼もしい。
「な、なら……一緒に考えてみるか」
「うん!! 二人なら何だって出来るよ!!」
夜が耽るまで、俺達は数学の参考書に向かい合う。
「これはこうでしょ?」
「いや、これはこうじゃね?」
そうやって二人で考えれば、全問不正解だった問いを完璧にマスターすることが出来た。
知らない間に深夜二時で、たった数問しか解けていない。
でも、これは非常に大きな自信に繋がった。
「どうどう? やれば出来るでしょ!?」
「あ、ああ……有難う」
「二人って、楽しいね」
「う、うん」
夜になると幽霊の血が騒ぐのか、彼女が活発になる。そろそろ寝ようとしても、「もう寝た?」「起きてる?」とか、一向に眠らせてくれなかった。
だがそれに付き合うのも悪くないと思った。
そして次の日、学校を休んだ。
◆ ◆ ◆
「学校行きたかったぁ。行きたかったよぉ」
「あんまり煩いと、眼を閉じるからな」
右眼に棲む彼女と俺は、視力を共有している。目蓋を閉じれば、同様に彼女は暗闇に苛まれることになる。
勿論彼女が、右眼から飛び出したら別だが、その時は引っ張り出してやるつもりだ。
「この街って、こんなんだったっけ?」
「分かるのか?」
「ううん、なんか言ってみただけぇ」
「なんだよ……ほら、丁度着いたぞ。ここが十五年前に自殺した女性の、その両親が住んでいる家だ」
「ふーむ、むむむ。やっぱり全然記憶になぁい」
忘れてしまったのか、否か。
自身の髪を覚えているくらいだ。家の形や雰囲気を覚えていても、なんらおかしくない。
取り敢えず、見るだけで見てみよう。
「まっ、そう簡単にはいかないよな。先ずは話を聞きにいこうぜ」
「うん! 行こう!」
そう意気込んだのは良いものの、結論から言って、彼女が何かを思い出すことは無かった。
年老いてしまった実の両親の顔も、
生まれ育った家の中も、
飾れた遺影と写真の数々も、
彼女の記憶を呼び起こすには至らないらしい。
「……そうですか。あの、今日は本当に有難う御座いました」
家主にそう述べてから、俺達は家を後にした。
「うーん、お前の反応からしてやっぱり違うか……」
「ぐすん、ふぇぇえん。可哀想な話だったよぉ」
「えぇ……」
右眼から涙が溢れ出てくる。どうやら涙も共有しているらしい。
でもまぁ、確かに可哀想ではあった。
ただ、既に死を受け入れている彼らの話に俺の涙は不要だった。
「次行くぞ──」
八年前に交通事故で亡くなった女性の家にも訪れてみる。
結果は同じだった。
「仕方ないな……」
ならば、適当に街をぶらついてみることに。
顔と眼をよく動かして、様々なところを見て行く。もしかしたら、何か思い出すかも知れない。
「つ、疲れたぁ……」
「すっごい楽しかったぁ!!」
夜になるまで歩いたというのに、彼女から気付きを得られることは何も無かった。
◆ ◆ ◆
月日は重なり、半年もの歳月が経過してしまった。
三ヶ月前に行われたテストは無事、平均点よりも十点以上を獲得した。
これも全て、右眼に棲む彼女のお陰である。
──二人なら何だって出来るよ!!
その言葉は本当だった。
彼女と一緒に考え、答えを導き出していく。
ズルいと思うか? だが、彼女はこう言って切り抜けるのだ。
──大丈夫大丈夫。今は無人の眼だから。
二人で一人って言いたいらしい。
その楽観的な性格に何度も励まされた。
だから恩返しとして、今でも彼女の情報を集めている。
噂程度の内容で良い。少しでも手掛かりになる情報があれば活用したい。
そう思って、友達が一人も居ないにも関わらず沢山の生徒に話し掛けた。
するといつしか、皆は俺をこう呼ぶのだ。
情報屋、と。
「最近さぁ、山道に幽霊が出るって噂知ってる?」
「あ、そうそう。ずっと立ち尽くしてるって」
「楽しそうに一人で笑ってるって聴いたよ!?」
「怖いねぇ」
とある男女グループを訪ねれば、そんな噂を耳にした。それは明らかに、俺の噂だった。
あれからほぼ毎日のように、彼女の本体の元へ──木箱の元へ訪れている。右眼に棲み着いる彼女でも、血で泳ぐ時間は欲しいとのことだ。
「幽霊なのかなぁ?」
「じゃあ、最近誰か死んだの? 交通事故なのかな?」
「いや最近死んだやつはいねーよ」
「そういえば大昔、道路工事で事故があったよね」
「流石に関係ないだろ、それ」
様々な情報を元に、様々な場所へ行き、様々な方法でアプローチする。
それが情報屋だ。
俺達は遂に、
「無人、あっちに行ったよ!? あっちあっち、早く早く!!」
「え、マジ? 俺は見えなかったぞ」
「大マジ!! 右眼操作するから、転けないでよ!」
情報屋として名を馳せた俺は、街中から依頼を受けるようになっていた。
現在猫を追っているところだ。
「居た!!」
「走って!! 早く走って!! 走れーっ!!」
右眼から彼女の煩い声が頭蓋骨に響き渡る。頭痛薬を飲み忘れたことを後悔し、脚を懸命に動かした。
「もっと早く走れないの!? 逃げちゃう、逃げちゃったじゃん!!」
「無茶言うな……っ。これで全力だってば……」
「無人も死んで幽霊になっちゃいなよ! ぱぱーっと死んで、ぱぱーっと捕まえちゃいなよ!」
「た、確かに有りかもしれん……って、お前と居ると死生観バグるわ」
猫を追いかけ続け、公園の木にそれは登っていった。
「よし、情報通りだ──っ!」
「え、なになに!?」
「逃げると高所へ行き、降りれなくなる。そう言ってたろ? 震えてるところを捕まえっぞ」
「馬鹿猫だっー、ぎははっ」
猫は情報通り、ちゃんと震えて大人しくなっていた。木に手を掛けると、俺はゆっくり登っていく。
「慎重にだよ。慎重に……」
「言われなくても分かってるよ」
怯えた猫はすっかり萎縮してしまっている。簡単に捕まえることが出来た。
「任務クリア?」
「そうだな」
太い枝を椅子代わりにし、俺は疲れた身体を労る。膝の上に座る猫は、大人しく撫でられている。
「わぁ、綺麗……!! 無人、見て。すっごい綺麗だよぉ!!」
眼前には赤色の空が広がっていた。
夕焼けに染まる、黄昏の空だ。
「ああ。綺麗だな」
右眼が賑やかだ。こんな光景は空を見上げていれば毎日のように見れるのに……。
彼女はいつも、こういった刹那を全力で楽しむのだ。
俺は苦笑し、言う。
「なぁ、その……ごめんな」
「え、急に何ぃっ!? 何の話ぃっ!?」
「いやだってさ……全然お前のこと、進展ないじゃん。猫探しなんてボランティア、やってる暇なんて無いよなって」
「え……? あーううん。別に気にしてないよ?」
「そ、そうなのか?」
「うん!! だって、無人といるこの時間は、暗闇だった一〇年よりずっと長くて──でもあっという間で、凄く楽しかったから!!」
彼女は、右眼は盛大に見開いて、そう答える。
「そっか」
「ねぇ、無人はどう? 楽しい?」
「……ああ。生きてきた十五年間で一番楽しい」
「やったぜ、ぎひゃひゃっ!!」
「あのさ、笑い方が徐々にキモくなってない?」
猫を無事に届けると、俺は今日も木箱の元へ訪れる。
もう彼女は身体の一部となっていた。
「お、髪の毛発見。はい、回収〜」
「ねぇってばぁ。私の綺麗な髪、いつ完成するの!? どうして見せてくれないの!?」
右眼から離れた彼女は血管を器用に動かし、不機嫌そうに泳いでいる。
「まだ駄目だ。完璧にしてから返してやるから。少し待っててくれ」
「むぅ、ウェーブかけてよ!! くるんくるんにしてよ!?」
「いや、無茶言うなって」
俺の手元には、沢山の髪の束が出来ている。
木箱にもたれ掛かるようにして座り、今日も今日とて髪の手入れをする。櫛で髪をとかし、高い石鹸で洗う。ドライヤーも当然、掛けた。
以前よりは遥かにマシになった。と思う。
だが、やはり綺麗とは程遠かった。正直に言って、これ以上は無理だ。
どうしてもっと早く言わなかったのだろう。
ここまで期待させておいて、こんなボロボロになった髪を見せる訳にはいかない。
彼女が唯一覚えていることなのだから、生前は相当綺麗な髪だったのだろう。
健気に死んでいる彼女の、最後の取柄だ。プライドといっても差し支えない。
悲しませたくない。
「ここで何をしてる」
そんな折り、唐突にそれは訪れた。
濃い皺を携えた白髪の老婆が、いつの間にかそこに居たのだ。
「ゆ、幽霊……?」
「幽霊? 馬鹿言うんじゃないよ、全く」
「あ、すいません。つい……」
老婆は生きている人間だ。
目玉の彼女とは、その雰囲気が大きく異なっている。
老婆はもう一度問う。
「ここで何してる」
「……えっ、それは」
腰に手を当て、ここまで歩くのが相当しんどかったのか若干息が上がっていた。
それでも老婆はここに居て、俺に敵意を向けている。
さて、どのように答えるのが正解だろうか。
木箱に助けを求めてもみても、パシャパシャと水泳を楽しんでいる。
呑気な奴だ。
一方の老婆は、木箱を視認出来ないようである。
「私の大切な場所で、何してると訊いている」
老婆は痺れを切らし、そう言った。
「大切な場所……? お、お婆さん……あの、俺は──」
「なんだい。どうして、さっきから下を見ている」
下とは木箱のことだ。
「そ、それは……」
返す言葉が見つからない。
「なんだい。早く言いな、男だろ!?」
老婆に詰め寄られて、つい口に出してしまう。
「ゆ、幽霊が……俺には幽霊が見えるんです!」
「何だって!?」
老婆はカッと眼を見開いた。
襟を掴んでくる。
「どんなだ!? どんな姿だ!?」
「ま、待って下さい。落ち着いて──」
「それは……それは、私の姉なのか!?」
「ま、待って──え、あ、姉!?」
御歳七〇歳を超えていそうな老婆が、確かにそう言った。
そんな彼女の姉が、ここに……!?
木箱の少女が一〇年前に死んだと仮定して、老婆は当時、六〇歳。その姉なら、それ以上になる。
でも、木箱の少女の言動からして、六〇歳以上とは到底思えない。記憶を失っていく過程で、幼くなった可能性は充分にあるが……。
「お婆さん、落ち付いて聞いて下さい。俺が見えているのは、木箱なんです。木箱に入った、ぐちゃぐちゃの──」
俺はハッとして、口を閉ざす。
「ぐちゃぐちゃだと?」
「えっと……は、はい」
その言葉を聴いた途端に、老婆は力なく地面に座り込んでしまった。
そして、
「……なら。それは私の姉に違いない」
「え!?」
老婆が懐から紙を取り出す。それを懐かしそうに眺めた。
「お前さん、最近よう噂になっとる。裏道でずっと座ってる男が居るってな。ここで何をしていた。正直に言うてみんせん」
「それは──」
木箱の少女の出会いから、現在に至る全てを、自らを妹だと自称する老婆に話すことにした。
「そうかい。姉の為にな……」
「い、いえ。俺はただの話し相手くらいの存在でしかありませんでした」
「それでも、礼を言わんとな。姉はなぁ──」
曰く、姉は「六〇年前」にここで亡くなったらしい。不幸な事故だったそうだ。
「ほ、本当ですか? それは、本当にお姉さんで間違いないんですね!?」
老婆は頷く。
「六〇年前……」
俺の呟きに、木箱が反応する。
「え、私、六〇年も昔に死んでたの!? サバ読みすぎたぁ!?」
「サバっていうか、なんていうか……」
彼女が感じていた一〇年は、実際のところ六〇年経っていたということになる。
思えば、暗闇の中で時間感覚を保てる筈も無かったんだ。
この半年間だって一瞬だったようにも思えた。
一日ですら、数時間単位でズレることだってある。それが暗闇で六〇年積み重なれば、彼女のようになっても不思議ではない。
「これだ。これが姉との最後の写真だ」
老婆は取り出した紙を差し出してくる。
白黒写真だった。
そこには二人──小さな少女と、俺よりも歳上か、同程度の女子高生が写っていた。
「ねー、見せてよぉ。見せて見せてー」
「あ、ああ……」
木箱の眼球が水を跳ねた。俺に取り憑き、腕をよじ登ってくる。
いつもみたいに右眼に侵入すると、早速写真に眼を落とした。
「…………」
煩くしていた彼女が、途端に口を閉じる。
「ど、どうかしたか?」
聞き返すと、彼女は静かに告げた。
「──これ、私だ」
「ほ、本当か!? ──ッ!?」
刹那、右眼に映像が流れ始める。
それは様々な時間、様々な場所、様々な人との出会い──次々と移り変わっていく。
だがその時々で、同じ人間が何度も登場していた。老婆の、妹の若い頃の姿だ。
余程仲が良かったらしい。楽しそうに遊んでいる。
特に老婆が好きだったのは姉の髪だ。同じ髪型にするよう、姉にせがんでいる映像が映し出される。
そんな老婆の自慢の姉になりたくて、彼女は鏡の前で髪を綺麗に整えるのだ。
しかし──
映像は突然、ぶつ切りに途切れてしまった。
それは……彼女が瓦礫に押しつぶされて圧死した瞬間だった。
道路の建設途中で起きた不幸な事故だった。
映像が終わってみれば、右眼から大粒の涙が溢れていることに気付く。
「おぼいだじた……おぼぃだしだよぉ」
彼女は咽び泣きながら言う。
「今の映像は、お前の記憶か……!?」
「わだじ……わだじのだよぉぉっ──!!」
老婆にとって、俺は独り言を呟いているだけにしか見えていない。なのに彼女は何も言わず、充分に待ってから俺に告げてくる。
「椿。あの子の名前は、
「──椿」
俺が彼女の名を口にした瞬間──木箱が温かな輝きに包まれた。
「こ、これは……!?」
優しい輝きだ。
その輝きにつられ、水面から骨が浮き上がる。
それは空中で組み立てられ、徐々に人の形を成していく。
骨に筋肉が付着し、血管が張り巡らされ、そこに血が流れる。
頭蓋に椿の左眼が収まると、優しく俺を見つめた。
「無人……? どうして泣いてるの、ききき」
「え?」
言われてから気付く。
いつの間にか、左眼からも涙が溢れていた。
「ど、どうしてだろう……」
「おかしな、無人」
彼女は楽しそうに笑う。
俺の右眼に入り込んでいた眼球も、やがては勢いよく飛び出していき、
宙に浮かぶ彼女の身体を、血管を利用してよじ登っていく。
自身の右眼に収まる直前、俺を一瞥する。
ただの眼球が名残惜しそうに俺を見つめていた。
「礼はいいよ」
ふるふると震える眼球は、いよいよ彼女の右眼となった。
そして皮膚が形成され、学生服が戻る。
殆ど、生前と変わらない姿をし始める。
「無人……」
しかし、彼女は困ったように言うのだ。
「私の髪の毛、返して……恥ずかしいよぉ」
遂にその言葉と出くわし、胸に張り裂けるような痛みが生じた。
俺は背中に隠した彼女の髪をギュッと握り締める。
「でも……」
「どうしたの、無人?」
「でも俺は──」
葵椿の手が、頬に触れる。
「いいの。ほら、見せてみて。貴方が乾かしてくれた私の髪──」
彼女は俺の腕にも触れ、背中に隠したものと一緒にゆっくり引き寄せていく。
到底綺麗とはいえない、彼女が生前大切にしていた髪を、遂に見られてしまった。
「こ、これは──違っ」
「綺麗でしょ?」
「え?」
椿は手渡された自身の髪を見て、笑顔で言う。
「自慢の髪なの、きひひ」
どうしてだろう。涙がもう止まらなかった。
「ああ……あぁっ!! ──き、綺麗だ!!」
そう言えたものの、やっぱり俺は悔いを吐露してしまう。
「ごめん……っ!! ごめんっ!! 俺、上手く……上手くいかなくてっ。いっぱい頑張ったんだけど、上手く出来なくて……っ」
「分かってる。ずっと見てたから──」
そんな俺を彼女は優しく抱擁し、
「有難う。大切にしてくれて」
耳元で呟かれたその言葉に、立っていられなくなった。
最後のパーツである髪が、彼女の頭部へ戻っていく。
まるで時間が巻き戻ったように、荒れていたそれは生前の姿へと変貌を遂げる。
黒く変色していた髪は、太陽のように明るい黄色に変わり──重力を一身に受けたそれは、真っ直ぐ地面を目指して垂れている。
艶やかな輝きが、俺を魅了した。
とても美しかった。
彼女が自身の姿を取り戻すと、やがて静かな暗闇が訪れる。
椿は老婆の元へ歩み寄ると、包み込むように抱き締めた。
「──ッ!? い、居るのかい……?」
老婆は椿を感じ取ったようで、眼を見開いていた。
「ええ、今はお婆さんの傍に……」
「そうか……お姉ちゃんが……」
「ききき、すっかりお婆ちゃんになったね。
白髪を撫で、互いに身を寄せ合う。
「また会えてよかった。本当に」
椿が言った。
「……ずっと会いたかった」
何処か若返った老婆が言った。
言葉が届かなくとも、彼女らは互いを理解し合える。それが姉妹というものらしい。
思い出を語らう訳でもなく、ただ黙って存在を感じ合う。やがて二人は、同時に離れた。
老婆は、健やかな表情をしていた。
そして、椿は俺の元へやって来た。
「無人、もう泣かないで」
「そんなこと言われたって……っ」
「もう、皆んな子供なんだから」
涙を拭いてくれた彼女と、額が触れ合う。
体温の無い肌は、彼女が既に死んでいることを改めて俺に告げてくる。
心がギュッと縮こまった。
「無人。大好き」
「俺も、好きだ……っ」
自然と、唇を重ね合わせた。
そこに暖かさは無いが、温もりは確かに存在していた。
「間接キスじゃないでしょ?」
「ファーストだった……」
「けへっ、私もー」
椿が笑うから、俺も無理やりに笑ってみせる。
だって、これが多分最後だから。
「そろそろサヨナラしないとね」
「そ、そんな……っ。待って、俺はもっと……っ!」
「その為に頑張ってくれてたんでしょ?」
そうだ。分かっていたとも。
いずれこの日が来ることも。俺がやって来たことの意味も。
でも、俺は──
「お、俺はどうしたらいい!? お前が居ないと……お前が居てくれないと、何も出来ない!! 一人じゃ何も──」
「一人じゃないでしょ」
「え……?」
「学校の皆んなが居る」
情報屋として、沢山の生徒と関わってきた。友達の居ない俺が、ほぼ全ての生徒と接点を持てた。
「これからはきっと、皆んなが助けてくれる」
出会いも、別れも、全て突然だ。
「あぁ、凄く楽しかったなぁ。学園生活」
だから、その一瞬を彼女は全力で楽しむのだ。
「椿ぃ……」
「あれ、呼び捨てぇ? これでも私、六〇歳近く歳上なんだけどなぁ」
「え? あ、それは……その」
「うそうそ、ぎっひっひ!」
いつまでも笑い方が安定しない奴だ。
そんな彼女の笑顔は夜空よりも輝いていた。
「また……会えるかな……?」
椿の手を握る。
彼女は力強く握り返し、首を横に振った。
「ううん。もう……会わない」
「え……? ど、どうして……っ!?」
「無人には幸せな人生を送って欲しいから」
「ま、待って……待ってよ。俺はもう一度……嫌だ!! だったら離れたくない!!」
「もぅ、我儘なんだから……私はここで終わる。でも、貴方はこれから始まる。貴方に、ここで終わって欲しくない」
「……」
「──恋をして、無人」
その言葉に、俺の胸が熱くなる。
俺は今、人生で一度も味わったことがない恋をしている。
だが、初めての恋は失恋に終わった。
彼女は俺と「もう合わない」から。
「知ってる? 夜明け前が一番暗いんだって」
「う、うん。有名な言葉だ」
「じゃあこれは? 黄昏が一番美しい」
「え? 誰の言葉……?」
「私の言葉、きひぃっ」
半年間俺の眼に棲み着いたことで、彼女はきっと分かっていたのだ。
俺の弱さを、俺が椿に依存し掛けていたことを。
いずれ、この時がやって来ることを。
俺は姿勢を正した。
そろそろ幕が閉じようとしている。そう肌が感じ取ったのだ。
「俺は……俺の人生を生きよう」
「うん……お母さんを大切にね」
椿の満面の笑みは一等星よりも輝いていて、そして──儚く散っていく。
黄昏が一番美しい。
つまり、終わりの瞬間が一番美しい、と彼女は言いたかった。
彼女の心にもう未練は無い。
嬉しかったこと、楽しかったこと、大変だったこと、辛かったこと、
それら全ての記憶が美しい蛍となって夜闇に消えて行く。
確かに、一番美しかった。
手の中から彼女という存在の厚みが消え、
彼女が最後に溢した涙すら、黄金の輝きとなって空に消え行く。
彼女の象徴ともいえる木箱も無くなってしまい、彼女は文字通り跡形も無く消えてしまった。
残されたのは残酷な今と、優しい思い出だった。
そして訪れるのは、夜明けを乗り越えた希望の朝だ。
俺は、葵楓という椿の妹と共にこの場を後にする。
もう二度と、ここへは訪れないだろう。
何故なら、葵椿がもうそこには居ないと知っているから。
死者の終わりは、最も美しい。
俺はその瞬間まで、自分の人生を精一杯生きるとしよう。
生者の始まりがとても暗くとも、それはいずれ輝かしいものに変わるのだから。
箱詰め少女。 真昼 @mahiru529
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