第6話 キスするような角度
あの後、クロネコさんにまつわる悪夢はピタリと止んだ。
あれ以来、
彼の説明によれば、図書館の本に傷がついていたのも、あのクロネコさんが原因らしい。形をとれない怨念のエネルギーだけが彷徨っていて、何度か現実世界へ発露した結果があれ、だそうだ。
そして私は、知らないうちにあのクロネコさんに目をつけられてしまったらしい。箙はそれに気づいて、即座に忠告してくれたそうなんだけど。
「あれじゃ何にもわからないよ。ただの不審者」
平日の昼、私達は激安のファミレスで食事をしていた。デートと表現できるものではない。箙が言うには、私は今でも“そういうもの”を引き寄せやすい状態にあるらしい。だから、見守りを兼ねてこうして顔を合わせているのだ。
「でも、はっきり言っても同じことですよ。仮に俺が正直に説明したとして、あの時花澄さんは理解してくれましたか?」
無職の二十代と金欠の大学生にとって、千円以下で何種類ものメニューが食べれるここは天国のようだった。お互い、箸とフォークの動きが止まらない。
「確かに無理か。一般人には訳のわからない、怖い世界だね」
「訳がわからないままでいいんですよ。そういう人たちの安全を守るために、俺達がいるんですから」
お腹が満たされたところで、二人して歩いて帰る。私のアパートから一番近いファミレスだから、十分もしないうちに目と鼻の先まで来れた。
けど、そこに。
「わっ」
私は思わず声をあげた。真っ黒な野良猫が、こちらにお尻を向けてマイペースに歩いていたのだ。
「大丈夫ですよ、あれは普通のどうぶ、つ……」
箙が言い終わらないうちに、コンクリートに腰をおろした野良猫が振り返る。
金色の双眸が、きらりと光る。
箙は無言で、私の前へ進み出た。それが合図かのように、私は後ずさった。
「すぐに終わらせます。逃げてください」
角を曲がったところで、私は荷物を固く抱きしめ、祈るように目を閉じていた。人気のない路地は、のどかな風が流れていくだけだった。
何分経ったのか、わからない。けど、箙が笑顔で戻ってきた。
「お待たせしました」
けど目に違和感があるのか、片手で何度もごしごしとこすっている。
「大丈夫?」
「予想より手こずりましたけど、大丈夫です。さあ、行きましょう」
私のアパートの近くまで来たら、いつもはここで解散――そのはずだったけど。
突然、箙が正面からがばりと抱きついてきた。
「え、ちょ、ちょっと」
年下とはいえ、私より背の高い大学生男子の体格は、立派なものだ。ふりほどけなくて困ったけど、嫌ではなかった。そのことに、私自身が一番驚いた。
「あの、箙君?」
返ってきたのは、花澄さん、と名を呼ぶ声ではなくて。
子どものように、私の肩にぐりぐりと、顔を押し付ける行為。
何だかチクチクするな、と思っていたら。
「――あなたを逃がすつもりは、ないですから」
ゆっくりわき出てくる違和感が、第六感が、サイレンを鳴らした。
腕に囚われたまま、首を動かす。私の愛車、中古で買った頼もしい相棒の方へと。
その前輪の影から、地面に投げ出された人間の腕と、血だまりのようなものが見えた。
悲鳴は巨大な塊となり、喉から出てくることはなかった。
箙は体を起こし、私の肩に手を置いて、満面の笑みで見下ろしてくる。
両頬に生えた、硬いひげ。美しい黒の瞳、金の白目。けれど右目が、潰れている。
「あんな小僧に、僕が負けるとでも思いました?」
うめき声がした。本物の箙は、まだ生きているみたいだ。
箙の、いや、化け猫の顔が、近づいてくる。
キスをするかのような角度だ。私は喰われるのだろうか。そして二度と戻れない異界へ、連れ去られるのだろうか。
恐怖におびえる私は、化け猫にとってはたいそう美味らしい。クロネコさんは、絵本の中で宝石に見とれているシーンと、似たような表情をしていた。
「返してください。僕だけの、金と黒の、美しく綺麗な目を」
〈了〉
あの図書館にクロネコさんはいる 永杜光理 @hikari_n821
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