第5話 正体不明

 えびらの目は炯々けいけいと光っていた。地面にへたりこんだままの私の両頬を包み、しゃがみこんで視線をあわせてくる。


 獲物を狩る直前の猫は、こんなふうなのだろうか。


「思い出しました? ううん、最初から覚えていましたよね。僕に何をしたのか」


 返事がないことをどう思ったのか、箙は舌打ちして可笑しそうに相互を崩した。


「僕は人気者です。でも人気者も、かなり大変なんですよ? マナーを守らない子も、落書きしちゃう子も、何を訴えたいのか、ひたすらバンバン叩いてくる子もいるんですから。読まれない絵本は、それはそれで寂しい。でも人気者だと、その分お行儀の悪い子も寄ってきちゃうし、手垢だって悲しいくらい沢山ついちゃうんです」


 箙は両手に力を込めた。私の顔を、挟み込んで潰すくらいの勢いで。


「あなた、どうしてあんなことをしたんですか? 僕が怖かったのなら、遠ざかったままでいればよかったのに――目を、返してください」


 虚ろな眼窩から、涙に似た粘性のものが絶えず流れ出る。それは水晶体か、クロネコさんの溜まりに溜まった鬱憤なのか。


「僕だけの、金と黒の、美しく綺麗な目を」


 悲鳴さえ上げれない。逃げることだって、おそらくもう無理だ。


 やっぱりクロネコさんは、私にとって怖い存在だった。


 それが、わかっていたのに―――


 ふいに私は、地面にどさりと横に倒れる。箙が両手で目を抑えながら、立ち上がってのけぞった。鼓膜に穴が空くような悲鳴が響き渡った。


 箙は吠えた。両目から血を流しながら。人ではない、猫のような威嚇を口からほとばしらせて。


 質量のあるもの同士がぶつかる音。化け猫の悲壮で不快な、長すぎる断末魔。


 誰かが近づいてくるのを感じながら、私は意識を手放した。





 目が覚めると、そこは見知らぬ部屋だった。換気が不十分なのか、いろいろなものが混ざった生活臭がうっすらこもっている。


「気づきましたか?」


 平然と問うてきたのは、箙だった。


 はね起きて後ずさりしようとする私へ、慌てたように手を伸ばす。


「落ち着いてください。俺は、さっきあなたを襲ったのとは別人です。わかりますか?」


 信用していいのかわからない。けれど確かに、嫌な感じはしないかもしれない。

 私は部屋の隅まで移動して、彼を睨んだ。


 箙はその場で、私に頭を下げた。


「俺の失態で、こんな目に合わせてしまってすみません。まさか、あれが俺とそっくりの姿になるくらいに、強大な力を持っているとは予想できなくて。って、言い訳にしかなりませんね。本当に、すみませんでした」


 寝ていた布団の近くをみると、私の鞄が置いてある。


「ここは……?」


 短く質問すると、箙はなだめるように答えてくれた。


「俺の部屋です。とりあえず、あなたを放っておくわけにはいかないと思ったので。あ、車に鍵はかけてありますよ。ご希望なら、ここへ運んだ時のようにあなたを駐車場へ戻すこともできます」


 なかなか話についていけないけど、とにかく私の常識をはるかに超えたことが起きているらしいのはわかった。


「私を襲ったのは、あなたに化けたクロネコさんってこと?」


 一拍間があって、箙はうなずく。


「私が昔、クロネコさんの絵本に穴を空けたから、それでクロネコさんにずっと恨まれていたってこと?」

「ああ、そうだったんですね。やっぱり理由があったんですか」


 質問したのはこちらなに、反対に箙が答えを得たように納得している。


「あれって何だったの? 怨念? 付喪神?」


 かなり間があってから、箙は腕を組んで唸りだしてしまった。


「怨念……まあ、それが一番わかりやすい言葉か。付喪神はちょっと違うな。『宝石をたべたクロネコさん』は一巻目の発売が四十年前だし、付喪神になるとしても時間が足りないだろうしなあ」

「え、あの……」

「ああ、すみません。あなたが理解できる範囲の概念で説明しようと思ったら、どういう風に言い換えるのかが適切なのか、難しいんですよ」


 さらに唸りつづける箙に、私がしびれを切らしてしまった。


「あの……要するにあなたは、怨念か物の怪なのかわからないけど、そういうのを退治できる人ってこと? 陰陽師みたいな?」


「陰陽師とは全然違いますけど、そういう感じで理解してもらっても構いません」


 私は呆れてしまった。


 この人、説明する気があるのかないのか、一体どっちなんだろう。

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