食事は供されたときから始まっている
- ★★★ Excellent!!!
物語というものは何故発生したか、その意義には、さまざまな説がある。
人々を団結させるため。コストを掛けずにこのさき待ち受けているかもしれない困難の解決法を探るため。あるいは、それは人間の能力の余剰部分であり、単なる娯楽として発生した、等々。
いずれにせよ、物語とは私たちに働きかける何かであって、ただ、それ自身のために存在しているわけではない。
どれほど難解な作品であっても、作者が物語――他者への言葉として示している以上、そこには私たちに働きかける何か――感情、解決、楽しみがある。
それは塩釜焼きのようなものだ。食べることのできない表面――文字を崩していくと、中には美味しい料理――物語の意義が隠されている。硬い塩釜ほど、中は蒸されてより風味が増しているかもしれない。そんな期待が、ハンマーを握る手を、読み取ろうとする意志を強める。
でも、待ってほしい。
その塩釜は、どのようなものだったろうか。
塩釜も、もちろん、作り手が手を込めて作り上げたものだ。
「ぼく」と繭と少年の関係性が明かされ、賞味された料理の横で、崩れ去った塩釜のその元の姿を、読者は思い起こせるだろうか。形は? 色は?
理解されたモノの、理解されるまえのモノが持っていたイメージを思い起こすのは難しい。
そんなとき、観測とその結果を他者に委ねたいと思うのかもしれない。