しばらく読む時間を書くほうに当てていたのですが、気づいてみると今は入試期間なのですね。受験に関する悩みやエピソードを書いた新作を多く目にして、思い出しました。
私の頃から比べてさらに、大学だけでなく中学・高校受験も競争が激しいようで、そのために小説になるような葛藤やドラマも生まれるということでしょうか。そう言えばインド映画にも良い学校に進学するためのすったもんだものがあったような。学校が変わる、というだけでも人生の節目ではあります。
こちらには学校ごとの入試というものは基本的に無く、全国共通試験と高校/カレッジ(10年生、11年生)の成績で入学申請のできる大学が変わってくる、というシステムのようです(よく分かっていない)。他にNAPLANという全国統一テストが3、5、7、9年生時に実施されるのですが、これは教育システムが機能しているか、子どもの学習に寄与しているか、を見るもので、そのための準備に勉強するものではありません。制度をチェックするもので、生徒をチェックするものではない、ということです。
とは言え、心配になりますよねえ〜… でも教師の友人曰く、「こっちの学力試験はIQテストに近いよ。文章問題多いし」とのこと。それで気づいたのですが、アカデミック・スキルもスキルの一つであって、他のスキルより上位などではなく、平等なのよね、ということです。
つまり豪州の学力試験というものは、“ものごとをアカデミックに捉えて処理する才能”を持った生徒の道しるべなだけであって、スコアがあまり高くなくてもスポーツや芸術やものづくりやサービス・ホスピタリティの素晴らしい才能を持った生徒は大勢いる。各々のタレントを見出して伸ばすための教育という考え方なのだと思います。試験の成績を上げるための教育ではない。
適材適所を実現している社会経済のほうが生産性も幸福度も高いはずです。全国民の基礎学力を上げることはもちろん重要です。が、だからといって学歴や大企業が全てという価値観(ヒエラルキー)になってしまうのは何故なのか。食べ物が無ければ、住む場所が無ければ、着るものが無ければ、生きていけないのは同じで、これらをつくりだし消費者へ届ける過程に関与している全ての労働は平等に重要なはずです。労働報酬は専門性のレベルと拘束時間によって変わりますが、緊急性の無い職業であっても長期的には社会において必要で、労働者の生活は尊重されねばならない。
言える立場でもないのですが、もし受験で悩んでいる学生さんがいたら、そうやって考えてみてもいいのじゃないかな、と思いました。みんなそれぞれ得意なものを持っているはずで、まだ自分自身で分からなくても、これから見つける楽しみがあっていいなあ! と思えばいい。それまでの勉強というのは、自分の選択肢を増やすための手段なのであって、最終目的ではなく、いろいろなやり方があるのです。(親御さんは別の意味で大変なのですけれども。)
