「……今度は、俺の番かな」
ぽつりと呟くと、秋の夜風が頬を撫でた。
少し冷たい。
けれど、不思議と嫌な冷たさではなかった。
商店街には、ジャックオーランタンを模した橙色の灯りが並んでいる。
屋台からは、焼き菓子とカボチャのスイーツの甘い匂い。
遠くでは子どもたちの笑い声が弾け、仮装した学生たちがスマホを掲げてはしゃいでいた。
今日はハロウィン。
一年の中で、“仮装”という嘘が許される夜。
魔女も、吸血鬼も、天使も、悪魔も、誰もが当たり前みたいに街を歩いている。
だから、きっと。
女神様がそのままの姿で歩いていても、誰も本当の意味では気づかない。
「早く……会いたいな」
口にした瞬間、自分の声が思ったより柔らかくて、少しだけ恥ずかしくなった。
胸の奥が、静かに熱を帯びる。
9組目の咲也と紗理奈を見送ったばかりだというのに、俺の心はもう別の誰かへ向かっていた。
――彼女に会いたい。
そう思っている自分が、もう誤魔化せないくらいにいた。
♢
俺は、一度交通事故で死んだ。
交差点。
赤信号。
急ブレーキの悲鳴。
そして、身体の芯まで砕けるような衝撃。
次に目を開けた時、そこは白い空間だった。
床も壁も天井もない、果てのない白。
音も、風も、匂いもない。
世界そのものが呼吸を止めたような場所で、俺は異世界の女神に出会った。
『転生にあたり、あなたの“願い”を聞きましょう』
彼女は、まさしく女神だった。
金色の髪。
白い衣。
人の形をした光みたいな存在。
見上げているだけで、自分がひどく小さなものに思えた。
願いを聞かれても、俺の中には何もなかった。
何をしたいのか。
何になりたいのか。
誰に愛されたいのか。
何も分からなかった。
だから、口から出たのは、ひどく情けない願いだった。
『……ハーレム主人公になりたいです』
自分で言ったくせに、すぐ恥ずかしくなった。
『その……モテモテな人生を送らせてください』
馬鹿みたいな願いだと思った。
笑われても仕方ないと思った。
けれど女神様は、笑わなかった。
『多くを望むのですね』
ただ静かに、そう頷いた。
あの時の声を、今でも覚えている。
冷たくも、優しくもない。
ただ、俺という存在を真正面から見てくれる声だった。
『では、そのための“試練”を与えましょう。これは、あなたにお願いしたい、成功と報酬を伴う仕事です。完遂した暁には、あなたの望む世界を約束します』
その言葉に、俺は安堵した。
ああ、ちゃんと女神様だ。
ちゃんと、やり直す機会をくれるんだ。
そう思った次の瞬間。
『ただし』
声の温度が変わった。
『途中で失敗した場合、あなたは転生できません。魂も、記憶も、存在も、すべて完全に消滅します』
『……は?』
そこから先は、あまりにも理不尽だった。
『あなたは“ギャルゲー世界の友人”として、十人の主人公をハッピーエンドへ導きなさい』
主人公ではない。
友人として。
恋の主役ではなく、支え、助言し、背中を押す側として。
そうして俺は、恋愛請負人として十人の主人公を導く試練を受けることになった。
すべて達成すれば願いが叶う。
途中で失敗すれば即消滅。
……改めて考えると、かなりシビアだ。
そして今、俺は九人目のカップリングまで完遂したところにいる。
残るは、最後の一人。
けれど、その前に九人目の反省会がある。
毎回恒例。カップリング成立後に、俺と女神様で反省点や次への準備を話す時間だ。
いつもなら、女神様のいる白い空間で行う。
けれど今回は、俺が彼女を現世へ呼んだ。
ハロウィンの夜なら、きっと大丈夫だと思ったからだ。
周りを見れば、魔女、吸血鬼、天使、悪魔。
黒い翼を背負った子もいれば、顔中に傷メイクを入れた学生もいる。
非日常が、当たり前みたいな顔をして街を歩いている。
女神様が女神様のまま来たとしても、きっと仮装に見える。
少なくとも、そういうことにできる。
――以前、彼女が現世に来た時は大変だった。
修学旅行の恋愛請負。
その時、女神様はバスガイドとして俺たちの前に現れた。
認識阻害を使っていると言っていたけれど、それでも彼女は目立っていた。
人だかりができるほどに。
今なら、少しだけ分かる。
俺はたぶん、無意識に見ないようにしていたのだ。
女神様が、どれほど綺麗なのかを。
金色の髪は光を受けるたびに柔らかく揺れて、澄んだ瞳は一度目が合うと逸らしにくい。
すらりと伸びた手足。
無駄のない体の線。
整っている、なんて言葉ではまるで足りない顔立ち。
千年に一人。
そんな大げさな言葉ですら、たぶん足りない。
それなのに、笑うと近所のお姉さんみたいに柔らかい。
歴史の話をすると、オタクみたいに早口になる。
時々、こちらが呆れるくらい私情を挟んでくる。
神々しくて。
親しみやすくて。
遠くて。
近い。
周りの連中からも大人気だった。
それは当然だと思った。
あの人が人目を引かないわけがない。
誇らしかった。
やっぱり女神様はすごいのだと、自慢したくなった。
けれど同時に、胸の奥がちくりと痛んだ。
みんなが彼女を見ている。
みんなが彼女を褒めている。
彼女が、みんなに向かって笑っている。
それだけで、どうしてこんなに落ち着かないのか。
俺は、ずっとその感情に名前をつけないようにしていた気がする。
女神様がいたから、俺はここまで来られた。
彼女が試練を与えてくれたから、俺は誰かの背中を押せるようになった。
俺には、成りたい自分ができた。
美容師の資格を取って、いずれはスタイリストとして、迷いを抱えた人に自信と勇気を渡せる人間になりたい。
それは、俺の夢だ。
最初は何もなかった。
何を望めばいいのかも分からなかった。
でも今は違う。
誰かに似合うものを一緒に探したい。
鏡を見るのが怖かった人が、少しだけ顔を上げられるようにしたい。
変わりたいと願った人の背中を、そっと押せる人間になりたい。
そう思えるようになった。
全部、彼女がいたからだ。
人間と神。
俺たちは、触れられない。
手を伸ばしても、指先はすり抜ける。
同じ場所に立っているようで、実際には違う世界の住人だ。
その事実を思うたび、足元がふっと遠くなる。
けれど。
最後の願いを使えば、彼女に触れられるようになるのだろうか。
そんなことを考えている時点で、もう答えは出ているのかもしれない。
(願いの前に、想いくらいは伝えておきたいな)
そう思った時だった。
人混みの向こうに、彼女の姿が見えた。
橙色の灯りに照らされて、金色の髪が淡く浮かび上がる。
周囲のざわめきが一瞬だけ遠のいた。
焼き菓子の甘い匂い。
夜風の冷たさ。
仮装した人々の笑い声。
石畳を踏む靴音。
その全部の真ん中に、女神様がいた。
今日はハロウィン。
一年の中で、“仮装”という嘘が許される非日常。
どんな姿でも、どんな想いでも、少しだけ優しく包んでくれる夜。
俺は息を吸った。
胸の奥が、痛いくらいに熱かった。