『IQという名の檻』
白川凛は、頭が良すぎた。
小学校のころ、先生が黒板に算数の問題を書くと、説明が始まる前に答えが分かった。
中学生になると、教科書は「勉強するもの」ではなくなった。一度読めば、だいたい頭に入った。
大学四年の現在、凛は文学部に籍を置きながら、統計学、言語学、哲学、人工知能についての論文まで読み漁っていた。
けれど、彼女には一つだけ解けない問題があった。
——人間である。
ある日の午後、凛は大学図書館で卒業論文を書いていた。
テーマは、
「物語における偶然性と人間の自由意志」
だった。
「偶然なんて、無知の別名じゃないかしら」
凛は独りごちた。
原因を完全に把握できれば、結果は予測できる。
人間だって同じだ。
性格、家庭環境、教育、記憶、現在の状況——必要な情報をすべて集めれば、次に何をするか、かなりの精度で予測できるはずだ。
凛はそう考えていた。
そのとき、
「白川さん」
と声をかけられた。
振り返ると、同じゼミの青年が立っていた。
「これ」
一冊の本を差し出した。
凛が以前、探していると言った絶版本だった。
「古本屋で見つけたから」
「……私のために?」
「うん」
「どうして?」
「どうしてって……欲しいって言ってたから」
凛は黙った。
理解できなかった。
その本は安くない。しかも彼は、自宅から電車で一時間以上離れた古書店まで出かけたという。
「何か見返りが欲しいの?」
「別に」
「では、合理的ではないわ」
青年は笑った。
「白川さんって、ほんと頭いいのに、変なところで頭悪いよね」
凛の眉が動いた。
生まれて初めて言われた言葉だった。
「……説明してください」
「説明できないよ」
「説明できない?」
「白川さんが喜ぶかな、と思った。それだけ」
そう言って、青年は去っていった。
机の上に、一冊の本だけが残った。
凛は表紙を見つめた。
既知の情報から青年の行動を解析してみた。
好意。
友情。
承認欲求。
自己満足。
返報性への期待。
いくつもの仮説が浮かんだ。
だが、どれもしっくりこなかった。
やがて凛は、自分が微笑んでいることに気づいた。
「……なるほど」
小さく呟いた。
そして卒業論文の原稿を開いた。
さきほど書いた一文がある。
〈十分な情報があれば、人間の行動は原理的に予測可能である〉
凛は、それを削除した。
代わりに書いた。
〈人間とは、ときに他者の予測を裏切る。そして、おそらくそこに物語が生まれる〉
指が止まった。
少し考えて、さらに一文を加えた。
〈そして、自分自身の予測さえ裏切ることがある〉
窓の外では、秋の日が傾いていた。
黄金色の光が図書館へ差し込み、凛の長い髪を淡く照らしている。
世界は巨大な問題集だと、ずっと思っていた。
解けない問題などない。
そう信じてきた。
けれど——。
凛は贈られた本を胸に抱き、もう一度微笑んだ。
「解けない問題も、悪くないわね」
IQでは測れないものがある。
その発見こそ、彼女が大学四年間で得た、もっとも難しく、もっとも美しい答えだった。