消失
https://kakuyomu.jp/works/822139841817033219見られた事象とその理由泡沫に水道水の不純物
消失をテーマにした十首連作
十二月十九日、カクヨム甲子園2025の最終選考結果が出た日の午後、自宅でおばあちゃんが倒れました。荒木家は二世帯家族で、母方の祖父母、親、兄弟の七人暮らしととても賑やかなのですが、その時は自宅におばあちゃんとおじいちゃんと私の三人しかいませんでした。おじいちゃんは、倒れたおばあちゃんを支えるようにというか、巻き込まれるようにというか、下敷きになりました。
人生で初めて救急車を呼びました。
結局、おばあちゃんは大事には至らず、搬送されたその日のうちに帰ってきました。長風呂でのぼせてしまったのだろうとのことです。
でも、その時おばあちゃんは確かに意識がなかった。おばあちゃんの意識は世界から消失していた。
その日は私は知らないことがたくさんあるということを知りました。
119はとんでもなく速く繋がること。
オペレーターの人の声も、救急隊員の人の声も、優しすぎて泣きたくなること。
おばあちゃんの年齢を聞かれて、私はとっさに分からないこと。
意識のないおばあちゃんの体を、私は少しも持ち上げられないこと。
大事には至らず、と言いましたがおばあちゃんはあれから少し変わりました。認知症が悪化しました。倒れたことと因果関係があるのかは不明ですが、その翌々日、家で夕食を食べ、各々就寝支度をしていた23時半頃に冷蔵庫の扉を開けて、「ご飯の支度するわ」と言い始めました。
もうご飯は食べたよ。
今日はすき焼きだったよね、豪華だね、美味しいねって言ってたじゃん。
それにばあばもうご飯の支度を長い間してないよね。
たくさん言いたいことがありました。冷蔵庫のオレンジ色の灯りに照らされた、私よりもうずいぶんと背の低いおばあちゃんに、私は結局「もう夜遅いから寝なよ」とだけ言いました。
おばあちゃんは、これからどんどん想い出を消失していくのでしょう。
この世界にある全ての物は、少しづつ何かを削り落としていくのかもしれません。
消失してしまうなら、もうそれはどうでもいいのでしょうか。それはすき焼きの味もどうせ忘れてしまうからと、味のしない栄養物を口に放り込ませるようなものだと思います。
消失するもの、消失したもの、消失しているもの、それらに目を向けて生きていきたい。
私が消失してしまうまでは、私が抱え集めていたい。
そんな気持ちがあった中、つい先日、「【カクヨム短歌賞】中間選考会のようすをお届けします(前編)」という記事が公開されました。
https://kakuyomu.jp/info/entry/tankasho_fst_log1私はカクヨム短歌賞のファイナリストの作品だと、相澤零さんの「イタリア」がめちゃくちゃ好きでした。今回の記事では三人の選考委員の方がどんな風に見ていたのか、かなり詳細に書かれていて、私が近況ノートで好きだと言った(「カクヨム短歌賞【ナツガタリ'25】について」
https://kakuyomu.jp/users/ienekononora0116/news/822139840405527783)青松輝さんも「イタリア」を熱く語っていて嬉しくなりました。
そして改めて、自分が応募した短歌のレベルが低かったなというか、精査できていなかったと思いました。
たくさんの人に読んでもらったし、コメント付きレビューもいただいたので、光るものはあったとは自負していきますが、やっぱりまだ短歌を知らなすぎた。
今もまだ、短歌を知っているとは言えないし、この作品が良いものかどうかも分からないけれど、でも私は、あの時とは違って、明確に短歌を詠みたいと思って、短歌を詠みました。
私が消失する前に、私が抱えているものを、少しだけ一緒に抱いてください。