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高校生の死


 相次いで高校生が事故で亡くなって大きなニュースとなった。
 もちろん、高校生が事故に巻き込まれることは頻繁にある。しかし、同志社国際高校の辺野古沖の海難事故、北越高校の自動車事故は一つの共通した点がある。それは「私立高校の課外活動において発生した死亡事故で、どちらも事故現場に教員が不在であった」という事である。
 
 この二つの事故に関してはさまざまな観点から議論がされているが、この共通性に関して深掘りをすることが必要であると僕は思っている。というのは、同じような事故が今後も頻発する可能性が高く、聞いている限りでは、そこに横たわる問題について余り本質的な議論がなされているように思えないからである。

 まず、同志社国際高校の事故。これに関しては事故を起こしたのが「辺野古移設工事の抗議船」であったことが、問題の本質を更に遠ざけてしまった。
 というのも事故を「沖縄の平和活動の活動家がきちんとした手続きも踏まないまま教育の現場に出てきて悪影響を与えた上に事故を起こした」というストーリーに、些か悪意の元に転化した集団が存在し、また「そういう平和活動を行う人々は、多くの場合自分が正しいことをしていると思い込んでいるので、どうしてもちゃんと謝れない」という要素が絡まって、本質を逸脱した方向へ誘導されたからである。
 もちろん、どんな活動でも正しい手続きを経て、学校側もきちんとした説明を保護者にして課外活動を行うのは当然のことであるが、それを政治と結びつけて論じるべきではない。あくまで団体の過失を糾弾すべきである。
 当時、波浪注意報があったにも関わらず出航したのは危険に対する判断が甘かったといえるが、知床遊覧船事故における強風注意報、波浪注意報にもかかわらず出航したのに比較して更に悪いという事もなく、また救命道具に不備があったわけではなく、救命道具がひっかかるという偶然が死亡事故につながったわけで、「結果としての責任」は問われるにしろ、それをもって「平和活動」を叩く、というようなやり口はいかがなものか、というのが正直な感想である。
 もちろん亡くなった娘さんの家族には無限の責任追及の権利があり、活動団体及び学校に対し、それを行うべきである。ただ頼まれもしないのに横から口を出す場合、政治的思惑は出すべきではない。死亡事故はどちらの場合も「等価」であって、政治的な側面は些かもないのだ。更に言えば、高校生が未来ある(恐らくかなり優秀だったと思わせる)ことを以て非難の調子を高めるのはこの場合、差別的である。民事で賠償金が異なることはあっても、こうした場合の命は知床遊覧船事故で死んだ人間も、この事故で亡くなった高校生も、等価である。だが、それは亡くなった高校生の尊厳を些かも貶めるものではない。
 この事故ではどういう経緯かまでは分からぬが、船長もまた死亡しており、二人のご冥福を祈るしかない。しかし、この事故の本質的なバックグラウンドは、北越高校の事故にも繋がるものがある、と僕は考えている。
 それは、どちらも「高校」の本質から離れた部分、というか「私学にとってその高校のウリになる部分での無理が祟っているのではないか、という懸念」である。
海難事故においては、まず「京都の学校が」沖縄に修学旅行に行く、という点に注目したい。修学旅行とは、学生の見聞を広めるために敢て遠方に赴き、そこでしかない、歴史的、或いは地理的、文化的なものを学び取るというものである。僕の場合は、京都や奈良で日本の文化、広島で原爆の被災を学んだ。自由行動は多少あったが、殆どは決められたコースをみんなで回るものであったし、そこには「文化や歴史学習の意図は必ずあった」
 東寺では般若心経を習い、広島では原爆記念館を見学した。般若心経は暫くの間、全文を暗記していたし、原爆記念館では余りの悲惨な状況に心が痛んで仕方なかった。そういうコンテクストで言えば、沖縄に「観光旅行」でなく「修学旅行」で行くとしたら、やはり基本は「沖縄戦の跡」や「首里城」或いは「基地」と言う物であろう。「辺野古」が適切な対象化は意見が分かれるだろうが、ビーチよりは訪問先としてはあり得る場所だとは思う。もし、そこでその団体が学生に「辺野古移転」に関する何らかの政治的なレクチュアを行ったのならともかく、「その場所が問題になっている」ことを学生が知っていてそこを見学するというのが「おかしい」というならそちらの方が「おかしい」のだ。
 もちろん、適切な手続きによるべきだし、行き過ぎた政治的な教育などは排除すべきだが、どうも外形的な非難が先行していて僕にはそちらの方がよほど危険に思える。

 むしろこの事故で考えるべきは、「修学旅行において細分化されたメニュー」を重視する余り、教員が十分にフォローできる状況ではないのではないか、という視点が必要なのではないか?
 少なくとも修学旅行先として「沖縄」は魅力的だし、そこで「様々な体験メニューがある」というのは学校にとって、例えば生徒募集に当たって生徒を惹き付けるポイントに違いない。しかし、細分化すればするほど、教員の手は足りなくなり、フォローは薄くなる。今回の事故でも船に「乗るべき教師」は具合が悪く、乗船していない。いや具合が悪くなるかどうかの以前に「船酔いする人は」乗船を忌避する場合だってある。旅行の設計を「外見的に魅力があるもの」にするために手が薄くなるのを躊躇わないというのは、いかにも私立高校にありそうな話である。「沖縄」「北海道」「外国」というような。正直言って「観光旅行」的なサイトに後付けで意味をくっつけ、その上細分化したメニューでフォローを薄くするという「設計」がどうも色濃く感じられてしまうのだ。その意味でこの事故に関しては、僕は(悪意は存在していないにしろ)できもしないロジスティクスを拡げてしまった高校に一義的な責任があると考えている。とりわけ教師が同行していなかったというのは、それならなぜ教師が修学旅行先に「いた」のか、その意味を問われるべき案件である。彼らは観光旅行者なのか?

 北越高校の場合はソフトテニス部の遠征の最中に事故が起こった。同校のソフトテニス部は全国的にも強豪であり、これも視点を変えて言えば私立高校のウリである。正直言って私立高校のウリというのは「成績優秀な生徒を集めて良い大学に沢山入学させる」「クラブ活動が活発で強豪である」「充実した学生生活がメニューとして存在している」の3つであろう。そしてそれぞれが場合によって大きな問題を引き起こしかねない要素を持っている。今回のものは2と3であるが、2に関してはこうした事故以外に、「頻発するイジメ問題や教師の暴力問題」があり、こうした歪んだ価値観を持つ教育機関が増加していることに驚きと恐怖を覚えざるを得ない。
同校がそうした問題を抱える高校なのかは知らないが、学校の会見には強い違和感があった。知らぬ存ぜぬ風に対応した同志社国際の発言にも違和感があったが、北越高校の違和感はそれに勝るものであった。というのは今回の行事について、バス会社と高校の言い分に全く整合性がなかったことである。
 まず、どんなに強弁してもバス会社には落ち度がある。
 というのは、高校の代わりにレンタカーを手配し、その挙句、運転手まで手配し、その上運転手の事故歴や健康状態を全く知らなかったというのは「悪質な白タク行為」以外の何物でもなく、あまつさえ営業許可をとっており、その行為が自分たちの業界を脅かさないように守る制度だという常識を知っている「くせ」にこんな愚かな行為に加担した、というのは明白な落ち度である。
だが、その行為が高校を免責するなどと言う事はあり得ないのに、高校側は「その行為を以て」バス会社に全ての責任を押しつけようとしているようにしか見えなかった。
 そもそもバス会社にとって「そのような行為」をするメリットなど常識的に考えて「全くない」。多少のマージンを得たとしても、本来のバス業務に比べれば小さいものだし、こうした事故が起きたときのデメリットを考えれば(この業界の現場を踏まえれば、この事故でバス会社が倒産することだって大いに可能性がある)バス会社が主導するなど想像できないのである。一番想像可能なのは、修学旅行などのイベントをバーターにして「安く部活の遠征費を上げたい」という高校側からのアプローチではないかという疑いである。
 いや、安く上げたいのを悪いと言っているのではない。不法行為をバス会社に強要するのは法的に問題があるが、もしかしたらこんなことは別の学校でも起きているかもしれない。しかし自校の生徒が死んだのをバス会社だけの責任に帰そうなどとする教育者は全く許せない。
 北越高校は出身地の新潟の高校であり、新潟に関するものはスポーツにせよ何にせよ、贔屓にしていたが、この高校に関してはその贔屓を外さざるを得ない。それほど悪質性を感じてしまう。そもそもこうした「スポーツ校」の在り方は本質的に考えるべきである。部活に伴うイジメや教員の不行跡が目立つのはこうした高校である(もっともイジメに関してはスポーツ校だけの問題ではないが)恐るべきは、こうした高校生の死を経ても尚、問題の本質が解決されそうにさっぱり見えないことである。問題の本質をずらす意図的な作業や、高校側の隠蔽、そうしたものがあるならそんな私立高校など直ちに廃止すべきであろう。それは「教育」の地平からかけ離れた、穢いビジネスの世界である。僕が親ならば、ちゃんとした説明があるまでこうした学校には子供を預ける判断は絶対にない。

 そして、二つの事故に重なる風景は事故を起こした当事者たちの年齢である。辺野古の事故では船長が亡くなっているが年齢が71歳、磐越道の運転手は68歳。本来なら孫の面倒を見ている年齢である。どのような背景で二人が船や車を操縦していたのか分からないが、僕は65歳を超える頃から「人を乗せて運転する」のは極力避けた方が良いと思っている。二人がどのような経緯でそうした「仕事」をしていたのかは分からないが、どうも磐越道の運転手の方は生活上の必要性があったのではないかという風に見える。
 同じ年齢の者としては、なぜそうした仕事をすると判断をしたのか非常に気になる。今の時代は「そうした年齢の人が仕事を継続していないと喰っていけない」時代になりつつあるような気がするし、「そうした年代に仕事を回さないと人手が回らない世界」になっているのかもしれない。近くの工事現場で高齢の作業員が、寒い中、そしてこれからは暑い中、歩行者や車を誘導しているのだが、正直言って、何の役にも立っていないばかりか却って事故を引き起こしかねない指示をしているのを見ると、気の毒さと同時に社会が危険化しているとしか見えないのだ。
 教育現場もまた社会の風景も「何かが間違っている」のは明らかなのだが、その間違えを修正できるほどに日本の社会は「強靱」なのか、本当に疑問に思っている。

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